伝記
ジャック・マリタンは一八八二年、パリに生まれた。アンリ四世校を経てソルボンヌ大学で自然科学を学び、若い頃は唯物論者であった。学生時代に出会ったライサはロシア系ユダヤ人の哲学者で、二人は当時の科学主義に疑問を持ち、科学が人生の根本的な問題に答えられないと感じていた。一九〇一年には、一年のうちに人生の深い意味を見つけられなければ共に自殺するという約束まで交わしたが、シャルル・ペギーの勧めでアンリ・ベルクソンの講義を聴き、科学主義への批判に絶望を解かれたという。一九〇四年に結婚した二人は、作家レオン・ブロワとの交流を経て、一九〇六年にカトリックへ改宗した。一九〇七年にハイデルベルクへ移り、マリタンは生物学者ハンス・ドリューシュのもとで学び、ドリューシュの新生気論に、ベルクソン哲学と近いことから関心を持った。病気の療養中にトマス・アクィナスの著作を読んだ妻から、彼もその思想を学ぶよう勧められた。やがてアクィナスの哲学を近代に結びつける新トマス主義の代表者となった。
一九一二年にスタニスラス学院で教え始め、翌年にはパリ・カトリック大学の教授となった。一九一六年度にはヴェルサイユの小神学校でも教えた。哲学の探究は法、政治、経済、教育、芸術にも及び、自らの実践的な立場を「政治的ヒューマニズム」と呼んだ。近代の理性主義、不可知論、個人主義、無神論を批判し、共通善に基づく政治を追求しようとした。一九三〇年にはエティエンヌ・ジルソンとともに、ローマの聖トマス・アクィナス教皇庁立大学から名誉博士号を受けた。その思想は、雑誌『エスプリ』を創刊したエマニュエル・ムーニエをはじめ、多くのカトリック知識人に影響を与えた。一九二五年には芸術家ジャン・コクトーと雑誌『黄金の葦』を創刊した。
キリスト教哲学をめぐる論争では、これを認める立場からエティエンヌ・ジルソンとともに、エミール・ブレイエらと対立した。コクトーとは親交を結び、カトリック信仰へ導いた。六十冊を超える著書では、美学、政治思想、科学哲学、形而上学、教育、典礼などを論じた。『宗教と文化』を一九三〇年に発表し、『全きヒューマニズム』は一九三五年、『人権と自然法』は一九四二年に刊行した。『人間と国家』も著した。一九四三年には教育を論じる『岐路に立つ教育』を発表し、一九六〇年には『芸術家の責任』も刊行した。人間の尊厳や人権についての思想は、国際連合の世界人権宣言の起草と発展にも影響を与えた。
一九三三年、トロントの中世研究のための教皇庁立研究所で北米初の講義を行い、コロンビア、シカゴ、ノートルダム、プリンストンの各大学でも教えた。一九四五年から四八年までフランスのバチカン大使を務め、その後プリンストン大学に戻った。一九五二年には同大学で芸術に関するメロン講義を行い、一九五六年に名誉教授となった。妻ライサが一九六〇年に死去すると、その日記を出版した。同年ベルリンで文化自由会議の基調講演を行い、一九六一年にはアカデミー・フランセーズの文学大賞を受けた。一九六一年からトゥールーズでイエスの小兄弟会と暮らし、一九七〇年にその会の一員となった。一九七三年四月、九十歳で死去し、妻とともにコルブスハイムの墓地に葬られた。
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