HISTORICAL PERSON · 1973年没

エドワード・G・ロビンソン

ルーマニア生まれのアメリカの俳優。性格俳優として活躍し、50年の俳優生活で101本の映画に出演。ギャング映画流行の先駆けとなる作品に出た。

生涯
1973年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ハリウッド)
出生地
ルーマニア(ブカレスト)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

エドワード・G・ロビンソンは、1893年12月12日にルーマニアのブカレストで生まれ、1973年1月26日に没したアメリカ合衆国の俳優である。ユダヤ系の家庭に生まれ、出生名はエマニュエル・ゴールデンバーグといった。建築とブリキ細工を営む父の五男であり、祖母がよく聖書の物語を聞かせてくれたという。ある晩、父に連れられて見た無声映画の西部劇は二人とも一時の流行にすぎないと感じたが、ブカレストのカフェで見たジュール・ヴェルヌ原作のルーマニア語の芝居には心を動かされたと本人は語っている。兄の一人が反ユダヤ主義の集団に襲われた事件をきっかけに、一家はアメリカ行きを決めたとされる。ニューヨークに着いた時期は、1903年とも1904年2月21日ともいわれる。ロウアー・イースト・サイドで育ち、本人はエリス島で生まれ直したと書き残した。ルーマニア語は生涯忘れず、1966年にルーマニアを訪れた際の取材では、記者に英語でなくルーマニア語で話すよう求めたという。

ニューヨーク市立大学シティカレッジに進み、当初は刑事事件の弁護士を志したが、演技への関心から米国演劇アカデミーの奨学金を得て、芸名をエドワード・G・ロビンソンとした。姓は芝居で耳にした響きが気に入ったためで、名はエドワード7世にちなんだ。1913年にニューヨーク州ビンガムトンの舞台で職業俳優としてデビューし、1915年にブロードウェイに初めて立った。第一次世界大戦では海軍に勤務したが、海外には派遣されなかった。その後も舞台を中心に働き、映画にも出ていたが、多くは小さな役だった。転機は中年にさしかかったころの、マーヴィン・ルロイ監督のギャング映画『犯罪王リコ』である。公開年は1930年とも1931年ともいわれる。強い印象を残してギャング映画の流行の先駆けとなり、以後ギャング映画とフィルム・ノワールに欠かせない存在になった。

小柄でだみ声という風貌から悪役の印象が強いが、本人は教養が深く、8か国語を操ったという。『偉人エーリッヒ博士』では特効薬の開発に取り組む化学者を、『俺は善人だ』では小市民を演じ、シリアスにも喜劇にも対応した。『深夜の告白』の敏腕調査員、『キー・ラーゴ』の極悪なギャングなど、助演でも評価が高い。一方で、1930年代から1940年代にはファシズムやナチズムを公然と批判し、戦災救援などの団体に多額の寄付をした。

1940年代後期以降の赤狩りの時期には、共産主義者の疑いをかけられ、ブラックリストないし灰色リストに載って、大手の映画会社の仕事から遠ざかった。下院の非米活動委員会に召喚されたが、意図的な関与はないとされた。この間、離婚の慰謝料をまかなうため、長年集めた絵画を300万ドル余りで手放している。ブロードウェイで活動を続け、1950年代後半に映画へ復帰した。1956年には『十戒』でモーセの敵対者ダタンを演じ、同年には舞台の演技でトニー賞主演男優賞にノミネートされた。1949年の出演作ではカンヌ国際映画祭の男優賞を受けている。1961年には来日した。1965年の『シンシナティ・キッド』では老ギャンブラーを演じ、貫禄を見せた。1973年1月26日に79歳で亡くなり、『ソイレント・グリーン』が遺作となった。俳優生活は約50年で101本の映画に出演したとされ、舞台約30本と100本を超える映画に出たともいわれる。アカデミー賞の受賞は生前になかったが、死の約2か月後の第45回授賞式で名誉賞が贈られ、妻が代わって受け取った。

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