HISTORICAL PERSON · 1974年没

ウ・タント

ビルマの外交官・教育者。第3代国連事務総長を1961年から1971年末まで務め、アジア人初の事務総長で、歴代最長の在任期間となった。

生涯
1974年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
ミャンマー連邦共和国(パンタナウ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ウ・タントは、1909年1月22日にイギリス領インド帝国下のビルマで生まれた外交官、教育者である。四人兄弟の長男で、一家は地主と米商人を営み、比較的裕福だった。ビルマ族で敬虔な仏教徒の家庭だったが、孫のタンミンウーによれば、遠い祖先には中国系、インド系、イスラム教徒もいるという。父のポー・フニットはカルカッタで教育を受けた人物で、アメリカやイギリスの本を集めて子供たちに読書の習慣をつけさせた。そのためタントは熱心な読書家となり、学校の友人からは「哲学者」とあだ名された。11歳のときには、1920年大学法に反対するストライキにも参加している。幼いころはジャーナリストを夢見たが、14歳で父を亡くし、相続争いに巻き込まれて、母と四人の子供たちは経済的に苦しい立場に置かれた。

長男として一家を支える必要があり、四年制大学へは通えないと考えたタントは、1926年にラングーン大学の二年間の教員課程に入った。大学では、のちに首相となるウー・ヌと親友になり、ともに歴史学を学んだ。1928年に課程を修了してパンタナウに戻り、国民高校で上級教師となった。1931年にビルマ教員試験を最優秀の成績で通り、25歳の若さで校長に就任した。「ティラワ」というペンネームで新聞や雑誌に寄稿し、国際連盟に関する本などを翻訳している。影響を受けた人物として、スタッフォード・クリップス、孫文、マハトマ・ガンジーが挙げられる。第二次世界大戦中の日本軍占領下では、教育再編委員会の指導のためラングーンに赴任させられたものの、実質的な権限がなくパンタナウに戻った。日本軍が高校に日本語の必修化を命じたときにはこれに反抗し、反日抵抗の高まりに協力したという。

1948年にビルマが独立し、初代首相となったヌは、タントを放送大臣に任命した。内戦のさなか、カレン族の反乱に際して命がけで反乱側の兵営に赴き、和平交渉にあたったが、交渉は決裂した。1951年から1957年まではヌの秘書を務め、演説原稿の執筆や外遊の手配、要人との面会などを担い、最も親しい側近、助言者だった。1955年のバンドン会議では幹事を務め、1957年から1961年までは国連大使として、アルジェリア独立交渉にも積極的に関わった。

1961年9月、国連事務総長ダグ・ハマーショルドがコンゴへ向かう途中の飛行機事故で亡くなった。同年11月、安全保障理事会の推薦を受け、総会は全会一致でタントを事務総長代行に任命し、1962年11月には正式の事務総長に昇格させた。就任から一年足らずの1962年10月、キューバ危機が起こった。アメリカ大統領ケネディは、キューバに設置されたソ連製ミサイルの写真をタントに示した。タントは、ソ連がミサイルを撤退させる代わりにアメリカが非侵攻を保証するという案を提示し、ソ連首相フルシチョフはこれを歓迎して、以後の交渉の基礎となった。タントはキューバにも飛んでカストロと協議した。危機は解決され、超大国の戦争は回避された。

コンゴ動乱では、国連軍が分離派から攻撃を受けた後、必要に応じて武力行使を命じ、1963年1月までに分離派の首都は国連の管理下に入った。1965年にはノーベル平和賞受賞の連絡を受けたとされるが、委員長の反対で土壇場でユニセフに授与されることになった。1966年末に再任され、1971年末まで務めたが、在任は10年1か月に及び、歴代事務総長で最長である。1967年にはエジプトの要請を受けて国連緊急軍をシナイ半島から撤退させ、批判を浴びた。1974年11月25日に没した。

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