伝記
デューク・エリントンは、1899年4月29日にワシントンD.C.で生まれたアメリカ合衆国の作曲家、編曲家、ジャズ・ピアノ奏者であり、ジャズ・オーケストラのリーダーである。本名はエドワード・ケネディ・エリントンという。「デューク(公爵)」のあだ名は、子供のころから自然な優雅さと身だしなみを身につけ、きちんとした服装をしていたことから、友人がつけた。ジャズ・ファンからは、スウィング・ジャズの帝王と称された。
父は著名な白人医師ミドルトン・カスバートの執事で、時にはホワイトハウスへの仕出し業も行っていた。小学生のころからピアノを習い始め、ハイスクールでは校内のパーティでピアニストとして活躍した。同じ時期に音楽教師から高度な作曲理論を学び、のちに「私の音楽に対する勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまった」と回想している。1916年にピアニストとしてデビューした。
その後ニューヨークに進出し、1927年、マンハッタン区ハーレムで高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」を経営していたオウニー・マドゥンと、バンド契約を結んだ。マドゥンの考えは、店の客は全員が裕福な白人で、演奏するのは黒人のジャズメンというものだった。エリントンの楽団は、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、フレッチャー・ヘンダーソン、スタン・ケントンらの楽団とともに、一大スウィング・ブームを巻き起こした。1930年代から第二次世界大戦後にかけて、ビリー・ストレイホーン作曲の「A列車で行こう」や「キャラバン」など、ジャズのスタンダード曲を世に送り出した。
1964年に新潟地震が起きたとき、エリントンは日本公演の最中だった。地震の被害を知ると、次に予定していたハワイ公演を取りやめ、東京厚生年金会館で震災の募金を募るコンサートを開いた。純益の96万円は新潟市に贈られ、再来日した1966年には、新潟市から国際親善名誉市民の称号が贈られた。
映画『或る殺人』の音楽でグラミー賞3部門を獲得したほか、合計9回グラミー賞を獲得した。1969年にはその貢献が認められ、リチャード・ニクソン大統領から大統領自由勲章を授与され、1973年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章を叙勲された。1974年5月24日、肺癌と肺炎の合併症により75歳で死去し、ニューヨーク・ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。没後も楽団は存続し、2008年にも日本公演を行った。2009年には、コロンビア特別区からエリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行され、アフリカ系アメリカ人がアメリカの硬貨に描かれた最初の例となった。
同じ年に亡くなった人物
- Wiktor Bieganski (1974年没)
- ロドルフォ・アコスタ (1974年没)
- モーリン・ガードナー (1974年没)
- カール・ゼスタ (1974年没)
- ペール・ラーゲルクヴィスト (1974年没)
同じ地域に関係する人物
- ゴードン・マッタ・クラーク (1978年没)
- シシリー・タイソン (2021年没)
- マックス・ヴァインライヒ (1969年没)
- エルンスト・カッシーラー (1945年没)
- レッド・ホルツマン (1998年没)