HISTORICAL PERSON · 1975年没

野村正二郎

男爵の爵位を持つ科学者で、大学教授。早稲田大学のサッカー部で活躍して1927年の極東選手権にサッカー日本代表として出場し、後に日本蹴球協会の役員も務めた。

生涯
1975年没
死亡地
日本(東京都 / 文京区)
出生地
日本(大阪市)
出典
世界地図
日本(東京都)

伝記

野村正二郎は、1905年4月4日に大阪府大阪市で生まれた科学者、大学教授であり、サッカー選手でもあった人物である。旧姓は杉村といい、のちに男爵となった。父は杉村倉庫の創業者である杉村正太郎、弟は阪急電鉄で常務を務めた杉村正三郎で、大阪商工会議所の初代会頭として知られる五代友厚は母方の祖父にあたる。

大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)を卒業したのち、早稲田大学に進み、ア式蹴球部に所属した。同じ早稲田の学生や卒業生で構成されたクラブである早稲田WMWでもプレーし、鈴木重義や本田長康をはじめ、日本代表に名を連ねた選手たちと同じチームに属した。同クラブは1928年の天皇杯を制している。

在学中の1927年、上海で開かれた第8回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選ばれた。8月27日の中華民国代表との試合で代表初出場を果たしたが、この試合は日本の1対5という大差の敗戦に終わった。国際Aマッチの出場はこの1試合のみで、得点はなかった。

大学を卒業する前に、男爵に叙された野村維章を祖とする野村家へ養子に入り、杉村から野村へと姓を改めた。1928年2月2日に男爵を襲爵している。1929年には早稲田大学理工学部機械工学科を卒業した。

その後は日本蹴球協会、現在の日本サッカー協会の役員を務め、理事や審判統制委員を歴任した。また1938年のワールドカップを現地で視察し、日本人として最初となるワールドカップに関する報告書を作成した。

文部省に入省してからは、大学学術局の視学官などを歴任した。1950年代からは著述活動も始めている。1960年には、のちに上智大学理工学部の初代学部長となる田中敬吉から要請を受け、1962年の理工学部創設時から同大学の教授に就いた。

私生活では、先妻の季子は田健治郎の四女、後妻の喜久子は武田額三の長女であり、長男に維男がいる。

1975年1月15日、東京都文京区の日本医科大学付属病院で心筋梗塞のため死去した。69歳であった。死去した同じ1月15日に従四位に叙され、1月31日には勲五等に叙されて双光旭日章を受けた。

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