HISTORICAL PERSON · 1975年没

ホセマリア・エスクリバー

スペイン生まれのカトリックの聖人。オプス・デイ属人区の創立者で、2002年に教皇ヨハネ・パウロ2世により列聖された。

生涯
1975年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
スペイン王国(バルバストロ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲルは、1902年1月9日、スペイン北東部のバルバストロで生まれた。父ホセ、母ドローレスの6人きょうだいの2番目で、敬虔なカトリックの家庭で育った。下の3人の妹は幼いうちに亡くなっている。2歳のとき命が危ぶまれる重い病にかかったが回復し、両親は聖母への誓いを果たすため、彼をトレシウダッドの礼拝堂へ巡礼に連れて行った。後年、彼自身が1960年代にこの地の聖所の建設を後押しし、1970年代半ばに完成している。

1908年から1912年までバルバストロの修道会の学校で学び、1912年にウエスカで中等教育を始めた。得意としたのは数学に関わる科目で、いずれも優秀な成績を収めた。しかし1914年から翌年にかけて、織物を扱う父の事業が破産して一家は窮乏し、ログローニョへ移った。父はそこで勤め人として職を得た。ホセマリアは同地の学校を終え、ログローニョとサラゴサの神学校で神学を学んだ。父の勧めで法学の勉強も始めた。1924年に父が亡くなり、1925年3月28日、23歳で司祭に叙階された。農村の小教区を務めたのち、サラゴサで司祭として働いた。

1927年、法学の博士号を取るため、司教の許可を得てマドリードに移った。翌1928年10月2日、マドリードでオプス・デイを創立した。これは、信徒と司祭が日常生活を聖なるものにすることを目指す団体で、のちにカトリック教会の属人区となる。1936年にスペイン内戦が始まると、宗教への迫害が激しくなった。彼は非合法と知りながらマドリードを離れるまで隠れて司牧を続け、やがてピレネー山脈を越えてアンドラとフランスを経由し、ブルゴスに移った。1939年に内戦が終わるとマドリードに戻り、法学の博士号を得た。その時期は1939年とも、その数年後ともされる。

1946年にローマへ移り、ラテラノ大学で神学博士号を得た。授与は1955年とも伝えられる。バチカンの二つの省の顧問や教皇庁神学院の会員を務め、教皇付き名誉高位聖職者の称号を受けた。『道』をはじめ、『拓』『鍛』『聖なるロザリオ』『十字架の道行』などの黙想の書や説教集を著した。なかでも『道』は数十の言語に訳され、数百万部が売れたとされる。1970年から1975年にかけては、メキシコ、イベリア半島、中南米を訪れた。1975年6月26日、ローマの本部で心不全のため73歳で亡くなった。

1992年5月17日にヨハネ・パウロ2世によって列福され、2002年10月6日、ローマの聖ペトロ広場で同じ教皇により列聖された。列聖の調査を可能にした奇跡は、両手に重い放射性皮膚炎を負ったスペイン人医師の治癒であった。列聖の手続きは歴史上もっとも早いものの一つといわれ、約50万人が集まったと見積もられている。一方でオプス・デイと創立者には、秘密主義やエリート主義、フランコ独裁政権への協力といった疑惑や批判が向けられ、没後の列福・列聖をめぐっても議論が起きた。これに対し、教皇や教会の指導者は、すべての人が聖性へ招かれていること、信徒の役割、日々の仕事が人を聖化することという教えを支持した。

遺体はローマの平和の聖マリア教会に安置されている。2005年には、ロマーノ・コッシ作の高さ5メートルの聖人像がバチカンの聖ペトロ大聖堂の外壁に据えられ、教皇ベネディクト16世がその祝別式を行った。長崎市の精道の学校は、彼の後押しで開かれたとされる。

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