HISTORICAL PERSON · 1975年没

ムジブル・ラフマン

バングラデシュの初代大統領で、後に首相も務めた。東パキスタンのベンガル人の独立運動家で、称号のバンガバンドゥでも知られる。

生涯
1975年没
死亡地
バングラデシュ人民共和国(ダッカ管区 / ダッカ)
出生地
バングラデシュ人民共和国(Tungipara Upazila)
出典
世界地図
バングラデシュ人民共和国(ダッカ管区)

伝記

シェイク・ムジブル・ラフマンは、1920年3月17日に英領インドのベンガル州の小さな町タンギパラで生まれ、のちにバングラデシュの初代大統領となった政治家である。称号のバンガバンドゥでも知られ、日本の報道では「ムジブル・ラーマン」とも表記される。イスラム教徒でベンガル人の名家の出身で、父はゴパルガンジの裁判所で書記を務め、母は主婦であった。少年期には目の手術のために学校を辞め、4年後に学校へ戻っている。1947年にイスラミア大学から文学士号を取得した。

政治活動は1940年にイスラム教徒の学生連盟に加入したことに始まり、1946年にはイスラム大学学生自治会の事務総長に任命された。1947年のパキスタン独立とともに本格的な活動に入り、1950年代に東パキスタンムスリム学生連盟、後のアワミ連盟を結成した。当時のパキスタンは、1,600キロ以上離れた西パキスタンが主導権を握っており、言語と文化の異なる東パキスタンには大きな不満があった。植民地期とパキスタン支配下を合わせて13年を獄中で過ごしたという。

1970年のパキスタン国会総選挙で、アワミ連盟は東パキスタンに割り当てられた162議席のうち160を獲得した。この支持を背景に、東パキスタンのより大きな自治を要求したが、構想は破綻し、西パキスタンのウルドゥ語を唯一の公用語とする試みで緊張が激化した。東パキスタンの住民はほとんどがベンガル語を使っていたからである。ラフマンはパキスタン政府への非協力を呼びかけた。政府は戒厳令を敷いて軍を派遣し、運動を弾圧した。1971年3月、バングラデシュ独立戦争が始まり、インドが介入して第三次印パ戦争となった。その間にラフマンは逮捕され、支持者はインドへ逃れて準備政府を組織した。1971年12月に東パキスタンのパキスタン軍が投降し、1972年1月12日、ラフマンは独立したバングラデシュの首相となった。同年7月2日にはシムラー協定でパキスタンが独立を承認した。1974年には国連総会でベンガル語による初めての演説を行った。

独立時の国は9か月に及ぶ内戦で混乱しており、ラフマンは排他的な政策で秩序の回復を図ったが、事態は改善しなかった。戒厳令を布告して大統領就任を宣言し、新たに組織されたアワミ連盟を除くすべての政党の解党を命じたものの、国政は好転せず、飢餓と疾病が広がった。1974年の大飢饉や人権侵害、権威主義的な体制は、のちに厳しく批判されている。

1975年8月15日、ラフマンは妻と息子とともにダッカで陸軍の反乱部隊に殺害された。55歳であった。海外にいた娘二人は難を逃れた。反乱の首謀者の一人だった商務大臣は直ちに政権を掌握し、暗殺者たちを免責する法を制定した。この法は娘のシェイク・ハシナが首相となった後の1996年に廃止され、2009年11月には最高裁判所が実行犯の元軍将校12人全員に死刑を言い渡した。

後世の評価は分かれるが、多くのベンガル人は独立へ導いた指導者として評価している。2004年の世論調査で「史上最も偉大なベンガル人」に選ばれ、1971年3月7日の演説はユネスコの世界の記憶に登録された。

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