伝記
アメリゴ・ヴェスプッチは、1454年3月9日にフィレンツェで生まれたイタリアの探検家、地理学者である。フィレンツェ共和国の公証人ナスタジオ・ヴェスプッチとその妻の息子で、姓は蜂に由来するといわれ、蜂の図柄の家紋を持つ一族は、オニッサンティ地区に住んでいた。この地区には画家のボッティチェッリとギルランダイオの家もあり、ギルランダイオはオニッサンティ教会に一族の集団肖像画を描いたが、その中にアメリゴがいるとするヴァザーリの説に客観的な証拠はない。父の弟で人文主義者のジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチから教育を受け、ラテン語とギリシア語を学び、プラトンなどの古典や地理学に親しんだ。この叔父は、のちにフィレンツェの指導者となるピエロ・ソデリーニとも共に学んだ間柄で、アメリゴは自著『四回の航海』をソデリーニに献じている。
1478年、一族のグイド・アントニオがフィレンツェ大使としてフランスへ派遣されると、当時24歳のアメリゴは秘書官として同行し、約2年滞在した。帰国後はメディチ家の分家の当主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕え、その家の執事を務めた。父ナスタジオは1482年4月に世を去っている。1489年には、スペインのセビリアにあるメディチ銀行の代理店に不正の疑いがかかったため、調査のため現地に派遣された。ここで親しくなったジャンネット・ベラルディを新しい支店長に推し、帰途のピサでは、金130ドゥカートで航海地図を購入している。1491年にふたたびセビリアへ赴き、ベラルディ商会に入ってメディチ家の事業を監督した。
スペイン王フェルナンドが西インドへの探検航海を企てると、参加を求められて43歳で初航海に出たとされ、1497年から1498年にかけてカリブ海沿岸を探検したという。1499年から1500年の第二回航海では、カリブ海から南下してブラジル北岸まで達した。1500年にカブラルがブラジルを発見すると、ポルトガル王マヌエル1世は、この土地が島か、スペインが北側を探検していた大陸の一部かを知ろうとし、ブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴをセビリアから呼び寄せた。1501年から1502年の第三回航海では南米東岸を南下して南緯50度に到達し、当初はゴンサロ・コエーリョの指揮下にあったが、最終的に責任者となったとされる。この航海の最中にヨーロッパ人として初めて南半球で天体観測を行ったが、その記録はポルトガルの機密とみなされて王に没収され、返還は最後までなされなかった。1503年から1504年の第四回航海では南米北東部沿岸を探検した。
1505年にセビリアへ帰還し、1508年にはスペインで新設された初代の航海士総監に任命された。1503年頃に発表した論文『新世界』で、南米大陸がアジアとアフリカの最南端よりはるか南へ続くことから、既知のどの大陸にも属さない新大陸だと気づいたと述べた。1507年、ドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーが『世界誌入門』を出版し、付録の世界地図で、アメリゴのラテン語名の女性形からこの新大陸にアメリカの名を付けた。1512年2月22日にセビリアで死去した。4度の航海のうち、最近の研究では、1497年から1498年の初航海と第四回については、存在そのものに検討が必要とされている。
同じ年に亡くなった人物
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- アンナ・フォン・ザクセン (1437-1512) (1512年没)
- Goncalo Coelho (1512年)
- アトゥエイ (1512年没)
- ゾフィア・ヤギェロンカ (1464-1512) (1512年没)
同じ地域に関係する人物
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- マリーア・デ・ヴィロタ (2013年没)
- エルナン・コルテス (1547年没)
- ルイーズ・ドルレアン (1882-1958) (1958年没)
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