伝記
エルナン・コルテスは、スペインのコンキスタドールで、メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した人物である。初代バジェ・デ・オアハカ侯爵に封じられた。1485年、エストレマドゥーラ地方のメデジンに生まれ、1547年12月2日に没した。1992年から2002年のユーロ導入までスペインで発行された最後の1,000ペセタ紙幣には、その肖像が使われていた。イスパニョーラ島の統治者ニコラス・デ・オバンドの遠戚にあたる。はじめは法律家を目指してサラマンカ大学に通ったが、その道は叶わなかった。オバンドと新大陸に渡る計画もあったが、大怪我のために果たせず、カディスやセビリア、パロスなどで、新大陸から帰った者たちの話を聞いて見聞を広めた。
1504年、アロンソ・キンテーロの船でイスパニョーラ島に渡って植民者となった。18歳で首都サント・ドミンゴに市民登録をして、建物を建てたり土地を耕したりする権利を得た。まもなく統治者のオバンドからエンコミエンダ制の権益を与えられ、アスーアの町の公証人となった。1511年にはディエゴ・ベラスケスのキューバ征服に加わり、その働きが認められてベラスケスの秘書官となった。キューバでは、エンコミエンダ制の収益や鉱山、牧畜で生計を立て、1514年には、労働力としてさらに原住民の割り当てを要求するグループのリーダーになっていた。
やがてベラスケスとの関係は緊張した。1519年、キューバ総督の命令に背いて、500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸を進み、3月にタバスコ川に到着して、翌日の戦いに勝った。ユカタン半島に漂着していたヘロニモ・デ・アギラールと、パイナラの族長の娘マリンチェを通訳兼案内人として先へ進んだ。7月には兵の逃亡を防ぐため船を沈め、8月にベラクルス市を建設して内陸に入った。アステカの宿敵トラスカラ人と戦ったのち和睦して同盟を結び、各地の勢力とも同盟を結んだ。過酷な税制に不満を強めていた諸民族が、これに応じる動機となったという。10月にはチョルーラの虐殺が起きたが、スペイン人の正確な報告はなく、事情には諸説がある。
コルテスはアステカ王モクテスマ2世に丁重に迎えられ、首都テノチティトランを見学して、その強大さに気づいた。のちにベラクルスでナルバエス率いる追討軍を夜襲で破り、テノチティトランに戻ったが、留守を任されたアルバラードらが祭典中のアステカ人を虐殺し、反乱が起きていた。1520年6月、モクテスマ2世は住民に殺され、コルテスは命からがら脱出した。約1,000人のスペイン人が死んだこの事件は「悲しき夜」と呼ばれる。その後、新王クイトラワックが天然痘で在位わずか80日で死ぬと、若い戦士クアウテモックが王に立った。1521年、コルテスは五万余の連合軍を率い、4月に首都を包囲して、8月13日に陥落させ、クアウテモックを捕らえた。
征服後は土地を部下に分け与え、旧アステカ領にもエンコミエンダ制が広がった。1525年、反乱を企てた疑いでクアウテモックを処刑した。1529年にバジェ・デ・オアハカ侯爵に封ぜられ、1530年にメキシコへ戻って富を築き、1533年にはカリフォルニア半島の先端を確認した。1540年に帰国し、総督への再任を請願したが却下され、1541年にはカール5世のアルジェ遠征に参加した。1547年12月2日、セビーリャ近郊で赤痢のため62歳で世を去り、遺骸は遺言でメキシコシティのヘスース病院の礼拝堂に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・ハワード (サリー伯) (1547年没)
- アルブレヒト7世 (メクレンブルク公) (1547年没)
- セバスティアーノ・デル・ピオンボ (1547年没)
- ガエターノ・ディ・ティエーネ (1547年)
- ヘンリー8世 (イングランド王) (1547年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド6世 (ナスル朝) (1362年没)
- マリーア・デ・ヴィロタ (2013年没)
- ホセ・アントニオ・レジェス (2019年没)
- アロンソ・ムダーラ (1580年没)
- アルフォンソ10世 (カスティーリャ王) (1284年没)