HISTORICAL PERSON · 1976年没

アレクサンダー・カルダー

アメリカの彫刻家・現代美術家。針金彫刻から出発し、モンドリアンの影響を受けて限られた原色による動く彫刻「モビール」を生み出したことで知られる。

生涯
1976年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(Lawnton)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

アレクサンダー・カルダーは、1898年7月22日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州のロートンに生まれた彫刻家である。祖父のアレクサンダー・ミルン・カルダーはスコットランド生まれの彫刻家、父のアレクサンダー・スターリング・カルダーも高名な彫刻家で、母のナネットは画家だった。幼いころは、制作の仕事を請け負う父とともに一家で全米を転々とした。両親は8歳のカルダーに工具を与えるなど創造性を伸ばすことに熱心だったが、芸術家になることには反対した。先が不確かで金銭的にも厳しい職業だと知っていたからである。カルダーはスティーブンス工科大学で機械工学を学び、1919年に卒業した。その後の数年は自動車技師、製図工、治水技師の助手、木材伐採場の技師などを転々としたが満足できず、素描の夜間クラスにも通った。

転機は1922年に訪れた。客船のボイラー室の機関士として乗り組んだ航海の早朝、グアテマラ沖の穏やかな海で、水平線から昇る赤い朝日と、反対側に銀貨のように浮かぶ月が向かい合うのを見て心を打たれ、これが芸術家への道を選ぶきっかけになったという。1923年10月にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入り、ジョン・スローンらのもとで学んだ。学生のころはタブロイド新聞の挿絵を描き、取材したサーカスに魅了されて、その情景を描いた無数のスケッチや針金を一筆書きのように巻いた彫刻を作った。1926年にはパリへ移り、生活のために機械工学の経験を生かして針金や木で機械仕掛けの玩具を作り始め、これが針金彫刻に本格的に取り組む契機となった。針金のサーカス人形を即興で操る『カルダーのサーカス』はコクトーを熱狂させ、パリの前衛芸術家のあいだで評判になった。カルダーはスーツケースに詰めた人形を取り出し、2時間の上演で入場料を稼いだという。

1928年、ニューヨークで針金彫刻の初個展を開いた。1929年の大西洋横断の船で出会ったルイーザ・ジェームズと、1931年に結婚した。ミロ、アルプ、デュシャンらとの交友を深める中、1930年10月にモンドリアンのアトリエを訪れて大きな衝撃を受けた。白く塗られた空間に赤、青、黄の紙が貼られていた。カルダーが「この四角が振動すれば面白いと思いませんか」と尋ねたところ、モンドリアンは同意しなかったという。彼は抽象画に取り組んだが、2週間で針金彫刻に戻り、天体の動きをイメージした限られた色の抽象彫刻を作った。1931年秋にデュシャンが、動く彫刻に「モビール」の名をつけた。当初はモーターやクランクで動かす機械式だったが、故障しやすく動きも決まっていたため、同年末までに、室内の空気の流れで予測できない動きをする彫刻へ移り、真のモビールが生まれた。金属板が支え合う動かない作品は、アルプの提案で「スタビル」と呼ばれた。

1933年に帰国し、コネチカット州ロックスベリーの農家に住んだ。1937年のパリ万博ではスペイン館のために『水銀の泉』を作り、1939年にはニューヨーク近代美術館のために大型のハンギング・モビールを依頼されるなど、公共空間の作品も手がけた。1957年のモビール『.125』や、1958年にパリのユネスコ本部に置かれた『渦巻』、1968年にメキシコ市に設置された高さ20.5メートルの『赤い太陽』などがある。1966年に自伝を出版し、1973年にはブラニフ航空の依頼で旅客機に絵付けをして『空飛ぶキャンバス』とした。1976年10月、ホイットニー美術館での大回顧展の開幕直後、11月11日にニューヨークの次女の家で亡くなった。

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