伝記
ユリウス2世は、1443年12月5日にリグリアのアルビッソラで生まれ、16世紀初めの1503年から1513年までローマ教皇を務めた。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレという。貧しい家に育ったが、フランシスコ会コンベンツァル派の出である叔父が教皇シクストゥス4世となった。叔父の意向でフランシスコ会の修道院に学び、ラペルーズの修道院へ送られかけたが拒み、フランシスコ会に籍を置いた。1471年、叔父によりフランスのカルパントラの司教にあげられ、同年28歳で枢機卿となり、叔父が教皇になるまで持っていたサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリの枢機卿位を引き継いだ。叔父のもとで影響力を増し、アヴィニョンの大司教位など8つもの司教職を兼ね、1480年には教皇使節としてフランスへ派遣されて約4年滞在した。教皇がインノケンティウス8世に代わっても、枢機卿団での影響力は増すばかりだった。
枢機卿団にはもう一人の実力者ロドリゴ・ボルジアがおり、二人は互いをライバル視した。しかし1492年のコンクラーヴェでは、アスカニオ・スフォルツァを抱き込み、賄賂で票を集めたボルジアが勝ち、教皇アレクサンデル6世となった。敗れたローヴェレは身の危険を感じてオスティアに逃れ、さらにパリへ移り、フランス王シャルル8世にナポリ王国の継承権を主張するよう勧めた。1494年にはフランス軍とともにイタリアへ入り、ローマに達して、アレクサンデル6世を断罪して退位させようとしたが、教皇がシャルル8世の腹心ブリソネーに枢機卿位を約束したため、阻まれた。1503年にアレクサンデル6世が没すると、ミラノのピッコロミニ枢機卿を支持してピウス3世を選ばせたが、ピウス3世はまもなく急逝した。ローヴェレは、かつての仇敵の庶子で教会軍総司令官だったチェーザレ・ボルジアの支持を取り付け、教皇位に就いてユリウス2世を名乗った。用済みとなったチェーザレは捕らえられ、ナバラ王国へ逃れたが、1507年に戦死した。
ユリウス2世は、教皇領をめぐる複雑な権力関係と大国の影響を一掃しようとした。まずボルジア家の影響を拭い去り、オルシーニ家とコロンナ家の関係を仲介して貴族との関係を改善した。ファエンツァやリミニからヴェネツィア軍を追い、1506年には自ら軍を率いてペルージャやボローニャを陥落させた。1508年にフランス王ルイ12世やアラゴンのフェルナンド2世らと組んで対ヴェネツィア同盟を結び、1509年のアニャデッロの戦いでヴェネツィアを破ったが、フランスの影響力の大きさを危惧して、今度はヴェネツィアと組んでフランスに対抗した。フランスは1510年にトゥールで教会会議を開いて反撃し、1511年にはピサ教会会議が開かれた。教皇は神聖同盟を結んでこれに対抗し、1512年にローマで第5ラテラン公会議を召集した。イタリア全体の独立の夢はかなわず、1513年2月に病没し、遺体はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリに葬られた。
一方で芸術の愛好者でもあり、ブラマンテに老朽化したサン・ピエトロ大聖堂の新築を依頼して、1506年4月18日に礎石を置いた。同年に発見された《ラオコーン》をただちに買い取り、ヴァチカン美術館の古代彫刻コレクションの礎を築いた。ラファエロの「署名の間」や「ヘリオドロスの間」、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画の依頼でも、大きな役割を果たした。戦争好きの政治屋との評もあるが、現代でも人気のある教皇の一人に数えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームズ4世 (スコットランド王) (1513年没)
- シェフザーデ・コルクト (1513年)
- Claudine de Brosse (1513年)
- ピントゥリッキオ (1513年没)
- Michel Colombe (1513年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ジュゼッペ・トゥッチ (1984年没)
- グレゴリウス4世 (ローマ教皇) (844年没)
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- エンニオ・デ・コンチーニ (2008年没)
- アルフレド・オッタビアーニ (1979年没)