伝記
フリッツ・ラング、本名フリードリヒ・クリスティアン・アントーン・ラングは、1890年12月5日にウィーンで生まれた映画監督である。トレードマークの片眼鏡でも知られる。父は建築を修めた建設業者でカトリック教徒、母はユダヤ教徒の家に生まれ、ラングが10歳のころにカトリックに改宗したとされる。幼いころから絵や素描の才に恵まれ、冒険、幻想、探偵の物語を好み、カール・マイやジュール・ヴェルヌを愛読した。父の圧力でウィーン工科大学の建築学の講義に出たが、1908年に離れ、造形美術アカデミーに移った。翌年には家族と縁を切って一人で暮らし、キャバレーの美術係をして生計を立てた。
1910年からは地中海を回って北アフリカを訪れ、のちに極東へも旅をし、旅は1913年にベルギーで終わり、そこで映画に出会ったとされる。同年、パリに移ってイラストレーターや新聞の風刺画家として苦しい生活を送った。パリでは、フランスの連続活劇『ファントマ』を撮ったルイ・フイヤードに関心を向けたとされ、その影響はのちのマブゼ作品に見られるといわれる。1914年に第一次世界大戦が始まると、敵国人として拘束を逃れるためフランスを去った。故国に帰ってオーストリア=ハンガリー帝国陸軍に入り、東部戦線に送られて負傷した。この戦傷が原因で右目を失明したとされるが、ほかの原因を挙げる説もある。
療養のためウィーンに戻ると、映画脚本を書きはじめ、1917年に映画人ジョー・メイと出会った。その際、女優で脚本家のテア・フォン・ハルボウと知り合い、のちの二人目の妻となる。大戦後は脚本家として映画会社に売り込み、ドイツの大手ウーファのプロデューサーの目にとまって映画界に入った。当時の売れっ子監督のもとで助監督を務めたのち、1919年に『ハルプブルート』で監督デビューした。1920年の『カリガリ博士』はラングが監督するはずだったが、脚本の改稿だけを担当することになった。
以後、大長編の犯罪映画『ドクトル・マブゼ』(1922年)、ドイツの叙事詩を映画化した『ニーベルンゲン』(1924年)、SF映画の古典的大作『メトロポリス』(1927年)、初期トーキーのサスペンス映画『M』(1931年)などを、ハルボウとの共作で手がけた。サイレントからトーキー初期にかけての、ドイツ映画を代表する作品群である。ヒトラーの政権が成立すると、ユダヤ人であるラングの立場は危うくなった。本人は、ゲッベルスが才能を評価して甘言で亡命を阻止しようとしたが、間一髪で1934年にフランスへ逃れ、さらにアメリカへ渡ったと語った。このとき、ナチスの支持者となったハルボウとは離婚した。ただ、最近の研究には、ラングの側からゲッベルスに売り込んで映画作家としての延命を図っていたとするものもある。
ハリウッドではジャンルを選ばずB級のプログラムピクチャーを多く撮ったが、『激怒』(1936年)、『暗黒街の弾痕』(1937年)、ブレヒトの協力による『死刑執行人もまた死す』(1943年)、『飾窓の女』(1944年)など、フィルム・ノワールの系統を主とする作品を残した。1950年代末に西ドイツへ戻り、自作を作り直した『怪人マブゼ博士』(1960年)が最後の作品となった。1965年にはゴダールの懇請で、彼の監督作『軽蔑』に自身の役で特別出演している。晩年はアメリカで過ごし、1976年8月2日、療養していたロサンゼルスで86歳の生涯を閉じた。
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