伝記
ドナト・ブラマンテは、イタリア盛期ルネサンスを代表する建築家である。本名はドナート・ディ・アンジェロ・ディ・パスクッチョといい、1444年頃、ウルビーノ近郊のモンテ・アズドルアルド(現在のフェルミニャーノ)で生まれたとされる。ヴァザーリは、母がウルビーノの出身で父がトスカーナの出身であり、生地はカステルドゥランテ(現ウルバーニア)だと記しているが、近年の研究はこれを退けている。画家・建築家であるとともに音楽家でもあり、建築論や詩・書簡の類も書いた多才な人物だったとされる。若いころの活動はほとんど記録に残っていない。はじめは画家を志し、ウルビーノで遠近法を用いた背景画を描く画家として修業し、ピエロ・デッラ・フランチェスカに学んだ可能性が指摘されている。またフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニらと出会って、建築を学んだとみられる。ロンバルディアへ旅し、マンテーニャに学んだとされるほか、アルベルティの作品にも触れた。
1477年にはベルガモのパラッツォ・デル・ポデスタの正面に、古代の哲学者の像を描いたことが知られる。1479年ごろにミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕え、1481年ごろにミラノへ移った。以後1499年までミラノで、おもに建築家として働き、ピエロ・デッラ・フランチェスカに学んだ遠近法の知識や、古典建築とウィトルウィウスの著作の知識を深めたという。1482年に起工したサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティーロ聖堂に携わり、1488年にパヴィア大聖堂の設計顧問に任じられ、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会の設計にも従事した。ミラノの宮廷でレオナルド・ダ・ヴィンチと出会い、集中形式の教会堂の平面に関心を抱くようになった。
1499年、フランス軍のロンバルディア侵攻でミラノを追われ、55歳でローマに移った。1502年、ペトロ殉教の地とされる丘のサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会にテンピエット(小神殿)を着工した。ローマの円形神殿を手本にした小さな礼拝堂で、盛期ルネサンス建築の頂点とされ、当時から高く評価された。現在、完全な形で残る唯一の作品である。
1503年には教皇ユリウス2世に任じられてサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり、ヴァティカーノ宮殿の拡張にも着手して、コルティレ・デル・ベルヴェデーレを計画したが、これは今日コルティレ・ディ・サン・ダマッソの中に埋没している。大聖堂の平面をどこまで進めていたかは資料から推測されるだけで、復元された案には構造上の欠陥が認められ、彼がそれをどう解決しようとしたのかは分かっていない。おそらく決定はなされていなかったと思われ、ユリウス2世の死と1514年4月11日のブラマンテの死の後、工事は大混乱に陥った。ラファエロら幾人もの建築家が建築主任を引き継いだが、計画は肥大化と迷走を繰り返し、最終的にミケランジェロが決定を下すまで設計変更が続いた。金遣いが荒く、レオナルドとマキァヴェッリは彼を「ルイナンテ」と呼んだという。パッラーディオは彼を「優れた建築を生んだ最初の建築家」と評し、セルリオは「古代の建築を蘇らせた人物」と呼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンダー (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1514年没)
- Guillaume Briconnet (1514年没)
- アンナ・フォン・ブランデンブルク (1487-1514) (1514年没)
- アンヌ・ド・ブルターニュ (1514年没)
- ハルトマン・シェーデル (1514年)
同じ地域に関係する人物
- Sandro Penna (1977年没)
- ウルバヌス8世 (ローマ教皇) (1644年没)
- ウィタリアヌス (ローマ教皇) (672年没)
- ジュリエッタ・シミオナート (2010年没)
- ヨハネス2世 (ローマ教皇) (535年没)