伝記
ウィタリアヌスは、第76代ローマ教皇(在位657年7月30日から672年1月27日)である。ラツィオ地方のセーニに生まれ、父の名はアナスタシウスと伝わる。生年については580年9月21日ごろとする説のほか、600年ごろとする記述もあり、はっきりしない。前任の教皇の死を受けて選ばれ、洗礼名のまま教皇に就いた。叙階は前任者の死から2か月足らずで行われており、皇帝の承認が異例の速さで得られたことは、東ローマ皇帝コンスタンス2世がローマ教会との和解を望んでいた表れとされる。
当時の教会は、キリストの意志をめぐる単意論の問題で、ローマとコンスタンティノープルの対立を抱えていた。ウィタリアヌスが選ばれたのは、653年に教皇がラヴェンナ総督により皇帝の命で捕らえられ退けられてから五年後のことである。前任者のエウゲニウス1世と同様、ローマで絶大な力をもつ東ローマの当局に対して極めて慎重にふるまうしかなかった。単意論をめぐる論争では目立つ立場表明を避け、648年に皇帝が出した勅令を公然とは非難しなかった。就任の知らせを皇帝と総主教ペトロスに送ると、皇帝は特権を確認し、宝石で飾った金の福音書を贈った。ペトロスの返書は単意論について曖昧だったが、両教会の関係は回復し、教皇の名はコンスタンティノープルの教会の記念名簿に載せられた。
663年、コンスタンス2世はランゴバルド討伐の遠征の途中でローマを訪れ、12日間滞在した。教皇は聖職者らとともにローマ市外の六マイル標で皇帝を迎え、サン・ピエトロ大聖堂へ案内した。皇帝は贈り物をし、金のパリウムを献じてミサにも出席した。だが皇帝は去る際、ローマの建造物から青銅の装飾を持ち去り、旧パンテオンの屋根を覆う鍍金した青銅瓦も運ばせた。これは略奪とみなされ、東ローマ皇帝のローマ訪問はこれが最後になったと記憶されている。皇帝はその後シチリアに移り、668年にシラクサで暗殺された。ウィタリアヌスはその子コンスタンティヌス4世が簒奪者メゼジオスに対して帝位に就くのを支え、単意論に対してより明確な立場を取ろうとしたが、皇帝を正統信仰へ導く試みは成功しなかった。やがて単意論派の総主教が教皇の名を名簿から外し、名が戻るのは680年から681年の第6回公会議の後だった。
イングランドとの関係も深め、当時のイングランドでは、アングロ・サクソン系と在来のブリトン系の聖職者が教会の慣習をめぐって分かれており、ウィタリアヌスはその関係の改善に成功したとされる。伝承によれば664年に、ノーサンブリア王オスウィウら二人のアングロ・サクソンの王が、金銀の器を携えた使節をウィルフリッド司教の率いるかたちで教皇のもとへ送った。668年3月26日には、タルソスのテオドルスに第7代カンタベリー大司教の叙階を授けた。また典礼に準拠したオルガンの使用を定めた最初の教皇として知られ、オルガンは会衆の聖歌の歌唱を導くために用いられたと言われる。在位中にはラヴェンナ大司教区が教皇の権威から離れた。
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