伝記
ルイ12世は、1462年6月27日、ブロワ城で、オルレアン公シャルルと三番目の妃マリー・ド・クレーヴの息子として生まれた。父はアジャンクールの戦いの後にイングランドで25年もの虜囚生活を送った人物で、67歳ごろ(70歳近いともされる)にして得た唯一の男子がルイだった。1465年、2歳か3歳のときに父が死に、ルイは幼くしてオルレアン公位を継いだ。国王ルイ11世は、オルレアン家とブルゴーニュ家の親密さを警戒し、オルレアン家の者が王位に就くことに反対するようになっていたが、それでも生まれたばかりのルイの名付け親となった。
1476年、ルイ11世の王命により、その娘ジャンヌと結婚した。ジャンヌは身体に障害があり、子ができないと見られていたため、ルイ11世はこの結婚でオルレアン家の傍系を絶やすことを望んだとされる。ルイ11世が1483年に死去し、13歳のシャルル8世が即位すると、1484年に三部会が開かれ、ルイも貴族の身分として出席した。のちにアンヌ・ド・ボージューの摂政政府への反乱、いわゆる「狂った戦争」に加わり、1488年のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦いで王軍に敗れて捕らえられ、投獄されたが、1491年にシャルル8世により釈放された。1494年に第一次イタリア戦争が始まると、国王軍の後衛を指揮し、ジェノヴァを占領した後もイタリア北部にとどまって、ミラノ公国を窺った。シャルル8世の息子が夭折したため王位継承者となり、1498年にシャルル8世が子のないまま死ぬと、ルイ12世として即位した。
ルイ12世は、ブルターニュに対する野心から、教皇アレクサンデル6世に頼んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の未亡人でブルターニュ女公のアンヌと結婚した。この結婚でブルターニュとフランスの結びつきが強まった。二人には2人の娘が生まれ、長女クロードはアングレーム伯フランソワの、次女ルネはフェラーラ公エルコレ2世の妃となった。イタリア戦争では、祖父ルイ・ドルレアンがヴァランティーヌ・ヴィスコンティと結婚していたことを根拠にミラノ公国も主張し、1500年にミラノを征服して、1501年にはナポリ王国を落とし、ナポリ王ルイ3世となった。しかしアラゴン王フェルナンド2世が結成した新たな同盟に敗れ、1504年にナポリをスペインに譲った。1508年に始まった第三次イタリア戦争では騎士バヤールの武勇が知られたが、教皇はフランスのイタリア介入を嫌って神聖同盟を結成し、1513年にフランス軍はミラノから追い出された。
1514年1月に王妃アンヌが死ぬと、ルイ12世はイングランドを対仏同盟から離脱させるため、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーと結婚し、1515年1月1日に死去した。男子がなく、王位はアングレーム伯フランソワが継いだ。ルイ12世は、娘クロードと結婚した婿のフランソワを最後まで警戒していたという。国内では、地方の自治や貴族の特権を侵さず、タイユ税の軽減や法制の改革、国内の平和により、「民衆の父」と呼ばれる人気のある王となった。一方、『ブリタニカ百科事典』第11版は、病弱で知力が平凡、気が弱かったため、王妃アンヌと寵臣の枢機卿に支配されたと酷評している。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・ジョコンド (1515年)
- アフォンソ・デ・アルブケルケ (1515年没)
- アロンソ・デ・オヘダ (1515年)
- Dukakinzade Ahmed Pasha (1515年没)
- アントワーヌ・ブリュメル (1515年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・フィギエ (1894年没)
- ピエール・オーギュスト・コット (1883年没)
- クロード・モーリアック (1996年没)
- ジョヴァンニ・カッシーニ (1712年没)
- クロード・アヴリーヌ (1992年没)