HISTORICAL PERSON · 1977年没

アンソニー・イーデン

英国の政治家。外務大臣などを歴任し、1955年から1957年まで第64代首相を務めた。第一次大戦にも従軍した。

生涯
1977年没
死亡地
イギリス連邦(ウィルトシャー / Alvediston Manor)
出生地
イギリス連邦(ダラム)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィルトシャー)

伝記

ロバート・アンソニー・イーデンは、1897年6月12日にイングランド北部ダラム州のウィンドルストーン・ホールで生まれたイギリスの政治家で、のちに初代エイヴォン伯爵となった。地主貴族の保守的な家に生まれ、4人兄弟の三男であった。父は気性の激しい変わり者だったが、絵を好み、水彩画や肖像画を描く才能があった。母は北部の名家グレイ家の出身で、地元では人気があったが、子供たちとの関係は緊張しており、その浪費は一家の財産を傾けたという。兄のジョンは1914年10月、第一次世界大戦の初期に戦死し、弟のニコラスは1916年のユトランド沖海戦で乗艦が爆沈して亡くなっている。イーデン自身はイートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学び、語学に秀で、少年のころは英語よりフランス語が上手だったと言われる。第一次世界大戦では従軍し、イーペルの戦いにも加わった。

1922年11月の総選挙には保守党から出馬して落選し、1923年12月の選挙で当選した。1923年11月に銀行家の娘ベアトリスと結婚して2人の子をもうけたが、夫婦仲は良くなかった。1931年9月に外務次官となり、1933年12月には王璽尚書として初入閣した。愛用した帽子は「アンソニー・イーデン・ハット」と呼ばれ、外交官や公務員のあいだで流行した。1935年12月には外務大臣に就任したが、ボールドウィンや、後を継いだチェンバレンの宥和政策に疑念を強めた。1938年2月20日、対イタリア政策でチェンバレンと意見が対立して外相を辞任し、のちにチャーチルらと対独伊強硬策を唱えるグループを作った。

1939年9月に第二次世界大戦が始まると自治領大臣として入閣し、チャーチルが首相になると陸軍大臣を経て、1940年12月に外相へ復帰した。とくにアメリカとの関係づくりに力を注ぎ、中東政策にも関心が高く、1941年5月からアラブ連盟を構想したとされる。1945年6月23日に長男サイモンがビルマ戦線で戦死し、ベアトリスとの関係は修復不可能になって、1950年に離婚した。1952年8月にはチャーチルの姪クラリッサと再婚している。1951年10月に保守党が政権に復帰すると3度目の外相となり、老いたチャーチルに代わって外交をほとんど取り仕切った。1954年10月にガーター勲章を受けている。

1955年4月にチャーチルが引退すると党首兼首相となり、5月の総選挙では労働党の277議席に対して344議席を得る圧勝を収めた。しかし1956年7月26日にエジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言すると、イーデンはフランス、イスラエルと協力してナセル政権の打倒を準備し、10月29日にイスラエルがシナイ半島を攻撃した。ところがアメリカとソ連の批判を受け、国連総会で即時停戦が決議され、イギリスとフランスは11月6日に停戦を受け入れた。運河会社などの資産を失い、莫大な戦費でポンドも下落した。もともと体調不良に悩んでいたイーデンはさらに健康を害し、1957年1月9日に閣議で辞任を表明した。

退陣後は妻とウィルトシャー州に隠棲し、回顧録を著した。1961年7月にエイヴォン伯爵を授けられて貴族院議員となり、1977年1月14日、肝臓がんのためソールズベリーで世を去った。次男ニコラスが1985年に亡くなると、エイヴォン伯爵は2代で絶えた。

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