HISTORICAL PERSON · 1977年没

スティーヴ・ビコ

南アフリカの反アパルトヘイト活動家。黒人の独立した組織が必要と考えて黒人意識運動を主導し、学生組織の創設を先導した。

生涯
1977年没
死亡地
南アフリカ共和国(ハウテン州 / プレトリア)
出生地
南アフリカ共和国(タルカスタッド)
出典
世界地図
南アフリカ共和国(ハウテン州)

伝記

バントゥー・スティーヴン・ビコは、1946年12月18日、東ケープ州の祖母の家で生まれた南アフリカの活動家である。ビコは姓で、一般にはスティーヴ・ビコの名で知られる。コーサ人の貧しい家庭に、ムジンガエ・マシュー・ビコとアリスの3番目の子として生まれ、姉と兄、妹がいた。父は警官を辞めたあと、キングウィリアムズタウンの原住民局の職員として働きながら、南アフリカ大学の通信教育で法律の学位を目指した。母は白人家庭の家内労働者となり、のちに病院のコックとして働いた。妹によれば、母の厳しい労働環境を目の当たりにしたことが、ビコの最初期の政治化をもたらしたという。名前の「バントゥー」は「人々」を意味し、彼は「人は他者によって人である」という格言の表すものと解釈した。1950年代末に父が病で倒れて亡くなり、一家は母の収入に頼ることになった。

ビコはギンズバーグの小学校で学び、特に優秀で飛び級を許された。数学と英語に秀で、フォーブス・グラント中学校では試験でクラス首位となった。1964年には地域の人々の奨学金で、兄カイヤも通う名門の寄宿学校に入ったが、3か月もしないうちに、兄が政府に禁止された組織の武装部門と関わっているとして告発された。兄弟は逮捕されて尋問を受け、兄は有罪判決のあと上訴審で無罪となった。ビコと武装部門を結ぶ証拠は示されなかったが、退学させられた。のちに彼は「私は地獄のような権力を憎んだ」と述べている。1964年から1965年はナタール州のセント・フランシス・カレッジで学び、リベラルな政治文化の中で政治意識を強めた。アルジェリアのベン・ベラやケニアのオディンガをヒーローとし、全ての人種が政府に対抗して結集すべきだと信じた。

周囲に勧められて法律ではなく医学を選び、1966年、ダーバンの医学学校の「非ヨーロッパ人」部門に入った。入学直後に学生代表評議会に選ばれ、南アフリカ全国学生連合に参加したが、不満を募らせていった。連合は公式にはアパルトヘイトに反対しながら、保守的な白人学生の支持を保つために主張を和らげていた。1967年7月、ローズ大学での会議で、白人とインド人の代表には寮の宿泊が用意され、アフリカ系黒人は地元の教会で眠るよう告げられると、ビコらは怒って退出した。この出来事が、多人種的な運動のあり方の再考を彼に迫った。善意の白人リベラルも黒人の経験を理解しておらず、しばしば父権主義的に振る舞うと、ビコは考えていた。

黒人は独立した組織を持たなければならないと考えて、1968年に南アフリカ学生機構の創設を主導し、会員は「黒人」のみとした。フランツ・ファノンらの影響を受けて、仲間とともに黒人意識の思想を発達させ、これが機構の公式なイデオロギーとなった。1972年には黒人人民会議に関与したが、政府は危険分子とみなし、1973年に活動禁止命令を出して、活動を厳しく制限した。それでも診療所や託児所の設立を支援した。活動禁止中は匿名の脅迫を繰り返し受け、警察に拘束されることもあった。1977年8月に逮捕され、警官から激しい殴打を受けて、9月12日に死亡した。葬儀には2万人以上が参列した。友人ドナルド・ウッズの1978年の伝記は、1987年の映画「遠い夜明け」の原作となった。

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