伝記
モクテスマ2世は、1466年に生まれ、1520年に没したメシカ族の君主で、アステカの第9代の王である。在位は1502年から1520年とされ、1503年からともいわれる。モンテスマとも呼ばれ、ナワトル語で「若き君主」の意をもつショコヨツィンの名でも知られる。2世という数はアステカの人々が用いたものではなく、初代モクテスマと区別するために後世の歴史家が付けた。アシャヤカトルを父とし、ネサワルコヨトルの娘の一人を母とするとされ、前の二人の王ティソクとアウィツォトルは叔父にあたる。貴族の子弟の教育機関カルメカックで学び、王位につく前から、すでに名の知れた戦士であり、ウィツィロポチトリ神殿の主神官でもあった。
1502年、テノチティトランで王位につくと、叔父で前王のアウィツォトルが採用した官僚に代えて、由緒ある家系の者を登用した。メシカ族は1428年以来、同じ言語群のテスココ、トラコパン(タクバ)と三国同盟を結んでいたが、1504年にチャルコにあったテスココの領地を占領し、1516年には甥のカカマツィンをテスココの君主に据えて、中央集権化を図った。積極的に遠征を行い、南はチアパスのショコノチコやテワンテペク地峡にまで領土を広げ、サポテカ人やヨピ人も帝国に組み入れて、アステカの最大版図を築いた。一方で、平民が王宮で働くことを禁じ、貴族と平民の隔たりを広げたともいわれる。
1519年は暦で「一の葦の年」にあたり、生贄の習慣を嫌う神ケツァルコアトルが帰還する年とされていた。その10年ほど前から、北の夜空に彗星が現れ、火山が爆発してテスココの湖が煮えたぎるなど、不吉な予兆が見られた。占星術師たちは、これを厄災の前触れと判断した。同年11月8日、モクテスマ2世は、イスタパルパ領主クイトラワクの案内でテノチティトランに来たエルナン・コルテスに初めて会った。コルテスをケツァルコアトルの使い、あるいはその神そのものと信じたと伝えられる。コルテスは神殿に案内され、生贄の血で汚れた祭壇を見せられたが、聖母マリアの像を建てさせてほしいと申し出て相手を困惑させ、いくつかの神像を階段から落として壊した。11月14日、コルテスはモクテスマ2世を幽閉し、後に有力者となったカカマツィンを、反乱を企てたとして捕縛した。
1520年5月、テノチティトランの神殿で祭礼のために集まった神官と貴族を、コルテスの部下アルバラードが虐殺し、豪華な装身具が奪われた。コルテスはこの襲撃に関わっておらず、知らないところで行われたため激怒したという。暴徒と化したメシカ族を抑えるため、コルテスはモクテスマ2世に、攻撃者を説得するよう求めた。アステカの兵士の前に立ち、攻撃の中止を訴えたが、雨のような石と投げ槍が飛んで、頭部と胸部に当たった。最初は致命傷に見えなかったが、翌日には傷が元で息を引き取ったと伝えられる。スペイン人に殺されたとする異説もあり、死の状況と死の日付(6月末から7月初め)には諸説ある。スペイン側の記述では、背が高く均整の取れた、穏やかな目つきの人物であったという。メンドーサ古写本に含まれる年代記は、彼を教養があり、占星術師、哲学者としてあらゆる技芸に優れた人物と記している。
同じ年に亡くなった人物
- アゴスティーノ・キージ (1520年)
- ペドロ・アルヴァレス・カブラル (1520年没)
- ボッカチオ・ボッカチーノ (1520年代没)
- アルフォンシーナ・オルシーニ (1520年)
- ザカリーヤー・アンサーリー (1520年)
同じ地域に関係する人物
- ホセ・アルフレド・ヒメネス (1973年没)
- アドルフォ・ロペス・マテオス (1969年没)
- ルイス・ブニュエル (1983年没)
- フランシスコ・ガルシア・ゲラ (1612年没)
- エルミラ・ガリンド (1954年没)