伝記
ラファエロ・サンティは、1483年4月6日に生まれ、1520年4月6日に没した盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家である。一般には単にラファエロと呼ばれ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに盛期ルネサンスの三大巨匠とされ、その作品は明確で分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術に昇華したと高く評価されている。異例なほど大規模な工房を経営し、短い生涯に多数の作品を制作した。
1483年、小国ながら美術史上重要な中央イタリアの都市国家ウルビーノ公国に、宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの息子として生まれた。当時のウルビーノ宮廷は、傭兵隊長として活躍し文人を庇護した公フェデリーコ3世のもとで高い評価を受けていた。公はラファエロの生まれる前年の1482年に没し、宮廷では芸術よりも文学が重んじられていた。父は画家であると同時に、公の生涯を物語る韻文詩を書くほどの詩才があり、宮廷の仮面劇の脚本や舞台装飾も手がけた。ヴァザーリは、この宮廷での生活が洗練されたマナーと社交的な性格を育んだと記している。のちに枢機卿となったベルナルド・ドヴィツィやピエトロ・ベンボとは、ローマ移住後も親交を保った。
母マージアは1491年、ラファエロが8歳のときに亡くなり、再婚していた父も1494年8月1日に世を去ったため、11歳で孤児となった。後見人となったのは、唯一の父方の伯父で聖職者のバルトロメオであった。ヴァザーリによれば、幼いころから才能を見せ、父の仕事の大きな手助けになるほどであった。ヴァザーリは、父が幼い息子をウンブリア派の画家ペルジーノの工房に弟子入りさせたと伝えるが、8歳では若すぎるとして疑う研究者もいる。いずれにせよ、1500年ごろにペルジーノのもとで少なくとも助手の立場にあったという点で、現代の美術史家の見解はほぼ一致している。ペルジーノの影響は初期作品に明らかで、ペルージャのコッレージョ・デル・カンビオの「審問の間」のフレスコ装飾にも助手として加わった。1501年に徒弟期間を終えて「マスター」として登録された。
記録に残る最初期の作品は、チッタ・ディ・カステッロの教会の礼拝堂のために描いた『バロンチの祭壇画』で、1500年に注文を受けて翌年に完成したが、現在は断片と下絵が残るのみである。その後も各地の教会から依頼を受け、『モンドの磔刑』や『聖母の婚礼』などを制作した。1504年から1508年にかけては、フィレンツェの絵画の影響が見られる時期にあたる。1504年10月付けの書簡には、フィレンツェでさらなる修行を行うと決めた芸術的才能に溢れる青年として、ウルビーノの画家ラファエロが紹介されている。この時期には、1500年から1506年にかけてフィレンツェに戻っていたレオナルドの作品から、もっとも直接的な影響を受け、生き生きとして複雑な姿勢の人物を描くようになった。
その後、死去までの12年間は、二人のローマ教皇とその側近の緊密な後援を受けてローマで活動した。この時期に描かれた4部屋のフレスコ画「ラファエロの間」はヴァチカン宮殿に残り、なかでも「署名の間」の壁画『アテナイの学堂』はもっとも有名な作品の一つである。ローマ初期の作品の多くは、デザインこそ本人のものだが、下絵以外の大部分は工房の職人が手がけたといわれる。存命中から高い評価を受け、ローマ以外の地では版画を通じても知られた。死後は、ミケランジェロの作品が長く大きな影響を与えたが、その穏やかで調和に満ちた作風も、模範的なものとして評価され続けた。
同じ年に亡くなった人物
- ミケル・シトウ (1520年代没)
- 小ステン・ストゥーレ (1520年)
- セリム1世 (1520年没)
- クィトラワク (1520年没)
- イッポーリト・デステ (1520年)
同じ地域に関係する人物
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