HISTORICAL PERSON · 1521年没

レオ10世 (ローマ教皇)

ロレンツォ・デ・メディチの次男で、1513年に37歳で教皇となった。ラファエロらを庇護してローマのルネサンス文化は最盛期を迎えたが、1517年の贖宥状販売の容認がルターの宗教改革のきっかけとなった。

生涯
1521年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

レオ10世は、1475年12月11日にフィレンツェで、フィレンツェの事実上の統治者ロレンツォ・デ・メディチと妻クラリーチェ・オルシーニの次男として生まれた。本名はジョヴァンニ・デ・メディチである。幼い頃から聖職者の道を歩むと定められ、7歳で剃髪を受け、10歳までに数十の聖職禄を与えられていたという。父は彼の性格を早くから案じ、悪徳と贅沢を避けるよう説く手紙を書き送っている。1489年に父が親族の教皇インノケンティウス8世に働きかけて13歳で枢機卿に任じられ、3年間は記章の着用も枢機卿団での審議への参加も許されなかった。その間はロレンツォの人文主義的な宮廷で、アンジェロ・ポリツィアーノ、ピコ・デッラ・ミランドラ、マルシリオ・フィチーノらのもとで教育を受け、ピサで神学と教会法を学んだ。

1492年3月に正式に枢機卿団に加わってローマに居を定めたが、その翌月に父が死去し、16歳のジョヴァンニは一時フィレンツェに呼び戻された。ローマへ戻って同年のコンクラーヴェに参加し、ロドリーゴ・ボルジアの教皇選出に反対したが、実現しなかった。兄ピエロとともにフィレンツェで過ごしたが、1494年にメディチ家は追放され、ジョヴァンニはドイツ、ネーデルラント、フランスなどを旅した。1500年5月にローマに戻り、数年にわたり芸術と文学に没頭した。1503年に兄ピエロが死ぬと、メディチ家の当主となった。1512年にユリウス2世の支持のもとでスペイン軍とともにフィレンツェに侵攻してメディチ家の復権を果たし、弟のジュリアーノが共和国の首班に据えられたが、実際に統治を行ったのはジョヴァンニであった。

1513年3月9日、ユリウス2世の死後の教皇選挙で、若く貴族的な枢機卿たちの支持を得て選出され、3月15日に司祭に叙階、17日に司教に叙階され、19日に37歳で戴冠した。司祭でないまま選出された最後の教皇である。戦争好きだったユリウス2世とは対照的に平和主義者として振る舞い、外交では、フランスと神聖ローマ帝国の対立のなか父譲りの政治感覚を発揮した。1515年にフランス王フランソワ1世がミラノに侵攻すると、フランスと妥協してボローニャ協約を結んだ。1519年の皇帝選挙では、カール5世の即位を阻もうとフランソワ1世を支援して失敗し、宗教改革に対抗する必要から、秘かにカール5世と同盟を結んだ。メディチ家の勢力拡大も図り、甥のロレンツォをウルビーノ公に指名して本来の公フランチェスコ・マリーア1世を追放したが、ロレンツォは1519年に一人娘カテリーナを残して急死した。

教皇としての業績は、政治より文化の面にあった。前教皇が着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設を引き継ぎ、ラファエロやミケランジェロら芸術家のパトロンとなって、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えた。ラファエロが若くして亡くなったときは非常に悲しんだという。一方、1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金のためドイツで贖宥状の販売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけとなった。行列や宴会など贅沢を好んで浪費を続け、教皇庁には未曾有の財政破綻が起こった。1521年10月11日には、ルターを非難したイングランド王ヘンリー8世に「信仰の擁護者」の称号を授けた。同年12月1日、45歳で急死した。風邪をこじらせた、あるいはマラリアのためとされるが、毒殺説もある。

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