伝記
ヒューバート・ホレイショー・ハンフリー・ジュニアは、1911年5月27日に生まれ、1978年1月13日に没したアメリカ合衆国の政治家である。1965年から1969年まで第38代副大統領を務めた。上院議員としては、現代アメリカのリベラル派を代表する指導者の一人であった。
サウスダコタ州ウォーレスで、薬剤師の父ヒューバート・ハンフリー・シニアと、ノルウェー移民の母ラグニルド・クリスティン・サンズの間に生まれ、幼少期を人口700人ほどの小さな町ドナルドで過ごした。父は町長や町議会議員を務めた地域の指導者であったが、1920年代後半の不景気で町の銀行2軒が閉業し、自らの薬局を続けるために苦闘した。高校を卒業すると、父は新たな薬局を開くため、ヒューロンへ移った。財政難のため、ハンフリーは大学を1年でやめて店を手伝うことになる。デンバーのキャピトル薬科大学で、2年間の課程を半年で修了して薬剤師の資格を得、1937年まで父を助けて働いた。ヒューロンの薬局は次第に業績を上げ、一家の暮らしは豊かになった。
だが、ハンフリー自身は薬剤師の仕事を楽しんでおらず、夢は政治学の博士号を取って大学教授になることだった。1937年にミネソタ大学へ復学し、1939年に学士号を得て、1940年にはルイジアナ州立大学で修士号を取り、政治学の助手を務めた。第二次世界大戦では3度、陸海軍に志願したが、色覚異常などの理由で不合格となり、従軍経験がないことを、のちに徴兵忌避だと指弾された。
1943年にミネアポリス市長選挙に出馬して惜敗し、同年からマカレスター大学で政治学を教えた。1944年にはミネソタ民主農民労働党の設立に参加し、1945年のミネアポリス市長選挙に圧勝して、1948年まで務めた。1948年にはミネソタ州選出の上院議員選挙で共和党の現職を大差で破り、民主党系としては南北戦争以来初の同州での上院議員当選となった。この年の民主党大会では、人種隔離の廃止を求める提案を党綱領に入れるよう働きかけた。以後、1949年から1964年までと、1971年から1978年まで上院議員を務め、1964年の公民権法では中心となって起草にあたり、平和部隊の構想も最初に提案した。1960年の大統領選挙の民主党候補指名争いでは、ジョン・F・ケネディと争って敗れた。
1963年のケネディ暗殺でジョンソンが大統領に昇格すると、1964年の選挙でジョンソンに副大統領候補に指名され、当選した。1968年の大統領選挙では、ベトナム戦争の問題で現職のジョンソンが不出馬に追い込まれ、有力候補のロバート・ケネディが暗殺されたことを受けて、ハンフリーが党の指名を受けた。党大会では、指名に不服な反戦派が暴動を起こしている。本選挙では共和党のリチャード・ニクソンに敗れた。1970年の中間選挙で上院に復帰し、1972年の民主党予備選挙にも出馬したが、ジョージ・マクガヴァンに敗れた。1976年は不出馬だったが、すでに膀胱癌に侵されていた。1977年には初代の上院仮議長代理に就任し、癌が末期であることを公表したあと、議員としては異例の両院合同会議での演説の機会を与えられた。上院議員・仮議長代理の在任中の1978年1月13日に死去し、翌14日と15日には議事堂のロタンダに棺が安置された。
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