HISTORICAL PERSON · 1523年没

ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)

オランダ出身の教皇(在位1522〜1523年)。共同生活兄弟団の一員で、後の皇帝カール5世の家庭教師を務めた。教会改革を志したが、治世が短く果たせなかった。

生涯
1523年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
オランダ(ユトレヒト)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ハドリアヌス6世は、1459年にユトレヒトの質素な家に生まれた。本名はアドリーアン・フロリスゾーン・ブイエンスとされるが、記録によって表記に諸説がある。父は大工で、おそらく造船にも関わり、彼が10歳のころまでに亡くなった。三人の兄と一人の姉がいた。ごく若い頃から共同生活兄弟団のもとで学んだとされ、ツヴォレかデーフェンテルの兄弟団に属していたようである。ルーヴェン大学では哲学、神学、法学を修め、1491年に神学博士の学位を得て、大学の教授陣の一員となり、1493年には大学の副総長に選ばれた。講義は学生のノートから出版され、若きエラスムスもその聴講者のなかにいた。

1507年、皇帝マクシミリアンから、孫にあたる7歳の王子の個人教授に任命される。この王子が後のカール5世である。1515年に王子によってスペインへ派遣され、トルトサ司教任命の確約を取り付け、1516年11月14日にはアラゴン王国の異端審問所長に任命された。カール5世の幼少時には、ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿と協力して摂政の任を果たした。1517年にシスネロスが没した後はアラゴン・カスティーリャ全域の異端審問所長となり、1522年にローマへ召喚されるまで務めた。1520年にカール5世が反乱鎮圧のためネーデルラントへ向かうと、王の不在中の摂政に任命された。これより前の1517年には、レオ10世によって司祭枢機卿に任命されている。

1522年1月9日、それまでほぼ無名だったアドリーアンがコンクラーヴェで教皇に選出されたことは、驚きをもって迎えられた。63歳で教皇冠を受け、ハドリアヌス6世を名乗った。ひそかに教会改革への意欲を燃やし、教会の問題を一つずつ片付けようと、手始めに当時議論の的だった贖宥と結婚の解除の問題に取り組んだが、もっとも強力に反対したのは、レオ10世以来の既得権益を守ろうとした枢機卿たちであった。イタリア人から見れば、貧乏臭い外国人学者で、古典美術への理解がなく芸術家への援助を削減する男としか見られなかった。アヴィニョン出身でレオ10世お抱えの音楽家カルペントラスは、教皇が芸術を無益なものと見ていたことから、ローマを離れた。

オスマン帝国への対抗上、ヨーロッパの諸侯が協力することを望んだが、果たされなかった。1523年には、神聖ローマ帝国やイングランド、ヴェネツィアなどからなる対フランス同盟に肩入れせざるをえなくなり、その間にスレイマン1世はロドス島を陥落させた。ドイツのプロテスタント問題の重要性は十分に認識していなかったようだが、1522年のニュルンベルクの帝国議会で、教皇使節キエレガーティ枢機卿は、教会の混乱の原因が教皇庁と高位聖職者の腐敗にあると率直に認め、教会改革を推進するとの教皇の言葉を伝えた。教皇が自らの誤りを認めて公式に発言するのは史上稀有だが、教会分裂の回避には寄与せず、プロテスタント側の嘲笑と反教皇宣伝に利用された。この発言は、教皇が信仰の問題について語る場合にも誤りうると表明した点でも注目される。

1523年9月14日に死去した。教会改革を成し遂げるには短すぎる治世であった。次の教皇には、前教皇レオ10世の従弟のクレメンス7世が選ばれた。ハドリアヌス6世以降、非イタリア人が教皇に選ばれることは、455年後の1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世が選ばれるまで絶えた。

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