伝記
クルツィオ・マラパルテは、1898年6月9日、トスカーナのプラートに生まれたイタリアの作家・ジャーナリストである。本名はクルト・エーリッヒ・ズッケルトで、父は染物職人のドイツ人、母はミラノ出身のイタリア人だった。七人きょうだいの三番目で、生まれて間もなく労働者の家庭に預けられて数年を過ごした。ドイツ人の父とは生涯うまくいかなかったという。後の筆名は1925年から用いたもので、「悪い側」を意味し、ナポレオンの姓ボナパルトをもじったものとされる。プラートの学校で初等・中等教育を受け、ガブリエーレ・ダンヌンツィオも通った名門校に学んだ。若いズッケルトはダンヌンツィオの文体や修辞を批判したが、老詩人は1928年の作品の刊行に際して、きみの反抗はきみの愛を募らせているのだろうと、上機嫌な手紙を送ってきたという。
第一次世界大戦が始まると、十六歳でフランスの外人部隊に志願し、ガリバルディ旅団に属した。イタリアが連合国側に参戦すると帰国してイタリア陸軍に入り、最終的に大尉まで昇進した。戦場では勇敢さにより銅メダルを授けられ、1918年にはフランスで、ドイツ軍のマスタードガスによる攻撃を受けて肺を深く傷めた。入院先の病院が爆撃されたときには、窓から飛び降りて難を逃れたという。のちにローマ・ラ・サピエンツァ大学で学び、ジャーナリストとなった。最初の作品は戦争を描いた評論小説で、多くの出版社に断られたすえ、1921年にプラートで自費出版された。
1922年にはムッソリーニ率いるファシスト党のローマ進軍に参加し、ファシズム左派の中心的な理論家として活躍した。1924年にローマで雑誌『国家の征服』を創刊して編集長を務め、1926年には小説家マッシモ・ボンテンペッリと『900』を創刊し、1929年にはトリノの日刊紙『ラ・スタンパ』の編集長になった。しかしやがてムッソリーニやヒトラーを批判し始めて疎まれ、1933年にファシスト党を除名された。反ファシズムの容疑で逮捕され、リーパリ島への流刑に処されたが、友人で外務大臣のガレアッツォ・チャーノの尽力で解放された。その後カプリ島の海を望む崖の上にマラパルテ邸を建て、多くの文化人を集めたが、ムッソリーニによって何度も逮捕された。
戦中は『コリエーレ・デラ・セラ』紙の記者としてユーゴスラビアに行き、東部戦線の激戦地へ送られた。フィンランドやラップランドを経て1943年半ばにイタリアへ帰り、マラパルテ邸にこもった。ウクライナの小さな村で書き始めた小説『壊れたヨーロッパ』が帰国後に刊行されると、ヨーロッパ中でベストセラーになった。1943年からは反ファシズムのレジスタンスに参加し、自由イタリア軍の将校、アメリカ軍司令部の連絡役として働いた。戦後はイタリア共産党に入党しようとするなど共産主義に傾き、1947年にパリへ移り、1949年に小説『皮』を発表した。
かねて映画に関心を持ち、脚本を書いて監督した『禁じられたキリスト』は1951年に公開された。カンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされ、第1回ベルリン国際映画祭では特別賞を受けた。毛沢東に感銘を受けて1956年に中国へ赴いたが、滞在中に長年の持病を悪化させて帰国し、1957年7月19日、ローマで肺癌のため亡くなった。日本では『皮』『壊れたヨーロッパ』『クーデターの技術』などが翻訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- ミュジドラ (1957年没)
- エーリヒ・アウエルバッハ (1957年没)
- ゲルティー・コリ (1957年没)
- マックス・アマン (1957年没)
- リチャード・バード (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- ヒエロクレス (222年没)
- オンケロス (120年没)
- エウゲニウス1世 (ローマ教皇) (657年没)
- ベネデット・ディ・サヴォイア (1808年没)
- マルティン・デ・アスピルクエタ (1586年没)