伝記
鄭玄(ていげん)は、後漢末期の儒学者で、字は康成。青州北海郡高密県の出身である。祖父は鄭明、父は鄭謹、子は鄭益、孫は鄭小同。今文と古文を兼ねて修め、数多くの経書に注釈を著した後漢を代表する学者の一人で、200年6月に74歳で没したとされる。
生家は裕福ではなく、鄭玄は地方で税を取り立てる小役人を務めたが、仕事には熱心でなく、父は怒ったものの学問を禁じることはできなかったという。13歳のころには五経を暗誦して天文や占術を学び、21歳には典籍を広く究め、暦数図緯の書や算術も身につけた。のち太学に遊学し、京兆の第五元から『京氏易』『公羊春秋』『三統暦』『九章算術』を、東郡の張恭祖から『周官』『礼記』『左氏春秋』『韓詩』『古文尚書』を学んだ。遊学の年齢は『鄭玄別伝』では21歳とされるが、『後漢書』の記述と合わないため、清朝の鄭珍は、20歳過ぎまで役人を務め、25歳ごろに太学へ行ったとしている。さらに盧植の紹介で、400人の弟子を抱える大学者の馬融のもとへ留学した。馬融は驕慢な性格で、鄭玄は3年間会えず弟子から指導を受けたが、ようやく対面が叶うと質問によく答えて感心され、帰郷のときには非常に惜しまれたという。
40歳を過ぎて郷里に戻った鄭玄は、弟子をとって教えた。生活は貧しく、東萊で畑を耕したが、これに数百から数千の学生が同行したという。研究と生産労働を学生と共同で行う学塾だったと考えられる。建寧4年(171年)、45歳のとき党錮の禁が起こり、同郡の孫嵩ら40人ほどが禁錮となると、鄭玄も影響を受けて門を閉ざした。中平元年(184年)に党錮が解かれるまでの間、学塾を営みながら『周礼』『儀礼』『礼記』の注を書いた。
党錮が解かれたのち、鄭玄は流亡の日々を送ることになった。中平3年(186年)に何進が招くと、州郡に脅されてやむなく応じたが、厚遇されながら一泊しただけで逃げ出した。袁隗が侍中に任じようとしたときは、父の喪を理由に辞退した。黄巾の乱を避けて学塾を不其山へ移し、翌年には孔融の支援で高密に戻った。孔融は鄭玄を深く敬い、屋敷を造り、「鄭公郷」という郷を特別に設けさせたという。初平2年(191年)には公卿が趙国の相に推挙したが、道が絶えて命令が届かなかった。青州で黄巾の残党が蜂起すると徐州へ避難し、陶謙の庇護を受けた。建安元年(196年)に高密へ帰る途中、黄巾の残党数万人に遭ったが、賊はみな拝礼し、互いに県境を侵さぬよう約束したという。
建安5年(200年)、袁紹は鄭玄を賓客として呼び、茂才に推挙して左中郎将に任じようとしたが、鄭玄はすべて辞退し、大司農に推薦されたときも病を理由に家へ戻った。夢に孔子が現れて寿命が近いことを悟り、やがて寝たきりになった。官渡で袁紹と曹操が争うなか、袁紹は子の袁譚に命じて鄭玄を従軍させようとしたが、応じさせられなかった。元城県まで来たところで病が重くなり、6月に亡くなった。葬儀は簡素にするよう遺言したという。門人には郗慮・王基・崔琰らがおり、劉備が徐州を治めたとき、門人の孫乾を仕官させている。
鄭玄は経書を注釈する際、必ず他の経書を引いて証明し、経書どうしが補い合い矛盾しないことを示そうとした。特に『周礼』を礼学の中心に据えた。『毛詩』の鄭箋と三礼注は完全な形で現存し、唐代・宋代を通じて最もよく用いられ、清代の考証学でも材料として活用された。一方、『周易』『尚書』『論語』の鄭注は、他の注釈が主流となって散佚した。『三国志演義』には、劉備のために袁紹への推薦状を書く人物として登場する。
同じ年に亡くなった人物
- Hyginus Gromaticus (200年(推定))
- トラレスのプレゴン (200年(推定))
- Saint Pudens (200年(推定))
- アルビノス (200年(推定))
- ケリントス (200年(推定))