HISTORICAL PERSON · 1525年没

トマス・ミュンツァー

ドイツの宗教改革者で、農民戦争の指導者。初めルターを信奉したが、財産の共有に基づく社会改革を説き、諸侯に妥協するルターを批判した。1525年に諸侯連合軍に敗れて捕らえられ、斬首された。

生涯
1525年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / ミュールハウゼン)
出生地
ドイツ連邦共和国(シュトルベルク (ハルツ))
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

トーマス・ミュンツァーは、ドイツの宗教改革者で、ドイツ農民戦争の指導者である。1489年12月21日に、鉱山業で知られるハルツ山地の小さな町シュトルベルクの、裕福な家に生まれたとされる。誕生は1489年末か1490年初めともいわれる。まもなく一家はクヴェトリンブルクに移り、1506年にライプツィヒ大学に入学し、1512年末にはフランクフルト・アン・デア・オーダーの大学に登録した。神学の学位と文学の修士号を得て、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語と古典文学、とりわけ聖書に通じた学者となった。

その後は各地を巡る説教者として暮らした。1513年にハレでラテン語の助教となり、マクデブルク大司教に対抗する秘密結社を作ったが、その結末はわかっていない。1513年か1514年ごろにハルバーシュタット司教区で司祭に叙階され、ブラウンシュヴァイクなどで教えるうち、贖宥状の問題でルターより先に批判的な立場をとったといわれる。友人たちは彼を「不正を懲らす者」と呼んだ。1517年の秋にはヴィッテンベルクでルターと会って議論に加わったともされ、1519年には、ルターやカールシュタットとカトリック側のエックとのライプツィヒ討論を聞いた。ルターは彼に好印象をもち、ツヴィッカウの臨時の職に推薦したが、その好意は相手にはなかったという。彼はタウラーなど神秘主義者の著作や、ヨアキムのエレミヤ書注釈を研究し、夢や幻視による啓示の可能性を考えるようになった。

ツヴィッカウでは、アナバプテストの労働者や「ツヴィッカウの預言者たち」と接触して行動をともにし、聖職者と金持ちを攻撃して、天国の到来と財産の共有を基礎にした社会改革を説いた。このためツヴィッカウを追われ、プラハとノルトハウゼンを経てアルシュテットに落ち着き、原始共産主義的な生活の集落をつくって説教活動の中心とした。彼の説教は農業や林業で暮らす労働者に強い反響を呼び、下層階級の要求を弾圧し諸侯に妥協するルターの姿勢を次第に批判するようになった。ルターは彼を「アルシュテットの悪魔」と呼んでザクセンの諸侯をあおったが、諸侯は彼の影響力をはばかり、暴力的な方策をとれなかったという。

1524年、西南ドイツに広がった農民一揆に呼応し、支持者たちに、世界の変化が近づいていると告げた。テューリンゲンの町で民主主義者ハインリヒ・プファイファーと結んで秘密結社をつくり、新政府の樹立をはかったが、ルターの書簡が届いて、二人は説教を禁じられた。ルターとの公開討論を望んでニュルンベルクへ赴き、ドイツとスイスの国境でドイツ農民戦争の最初の兆しを目撃した。南ドイツでは旧約聖書に基づく農業改革を説き、反乱はもはや猶予すべきでないとの信念を固めた。テューリンゲンとマンスフェルトで革命を組織するためミュールハウゼンに戻ったが、ザクセン・ブラウンシュヴァイク・ヘッセンの諸侯の連合軍に敗れ、捕らえられて、1525年5月27日にプファイファーとともに斬首された。

ルターの穏健派に対する宗教改革の最左翼、過激派を代表した神学者であり、聖書の言葉を階級闘争に翻訳して、農民大衆を理想社会の建設へ導こうとした。体は小さく、顔は浅黒く、髪は黒く、眼は炎のごとく、弁舌は粗野で熱烈であったといわれる。

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