HISTORICAL PERSON · 1979年没

シャーンドル・コチシュ

ハンガリーのサッカー選手。ヘディングが得意で「黄金の頭」と呼ばれ、1954年ワールドカップで11得点を挙げて得点王となった。

生涯
1979年没
死亡地
スペイン王国(バルセロナ県 / バルセロナ)
出生地
ハンガリー(ブダペスト)
出典
世界地図
スペイン王国(バルセロナ県)

伝記

シャーンドル・コチシュは、1929年9月21日に生まれ、1979年7月22日に没したハンガリー出身のサッカー選手である。ポジションはフォワードで、主にセンターフォワードを務めた。ブダペストの生まれである。身長は177センチと目を引くほどの長身ではなかったが、ヘディングを得意とし、「黄金の頭」という異名を取った。父は力強いディフェンダーで、頭で得点を挙げることもあり、息子はその姿を見て真似たという。ヘディングのほか、両足で正確にシュートを打つことができ、優雅で勇敢な選手だったとされる。

幼い頃から、4歳でボールの扱いに巧みさを見せたと伝えられる。第二次世界大戦が終わって間もない1946年に、応援していたフェレンツヴァーロシュに入り、1949年にハンガリー・リーグで優勝した。しかし1950年にホンヴェードへ移った。このクラブはハンガリー軍と結びついたばかりで、所属すれば兵役を免除され、国境での任務を免れたからである。ホンヴェードには、スポーツ次官グスタフ・シェベシュが国内有数の選手を集めており、フェレンツ・プスカシュ、フェレンツヴァーロシュ時代の同僚ゾルターン・チボルらと同じチームでプレーした。1950年、1952年、1954年、1955年にリーグ優勝を果たし、1951年、1952年、1954年には得点王にもなった。この代表の中核を成すチームは、当時世界最強と考えられていた。代表では1948年6月6日にデビューし、68試合に出場して75得点を挙げた。1950年代前半にマジック・マジャールと呼ばれたハンガリー代表の中心選手の一人となり、1954年にスイスで開かれた第5回ワールドカップでは、5試合で11得点を挙げて得点王となった。1試合平均2.20得点という記録は、2014年の時点で破られていない。

1956年、ホンヴェードがスペインで欧州の大会の試合に臨んでいた折にハンガリー動乱が起き、選手たちは帰国しないことを決めた。そのため折り返しの試合はブリュッセルで行われ、チームは敗退した。生活のために世界各地で親善試合を行い、1957年にはブラジルでも試合をした。やがて国際サッカー連盟が、ハンガリー協会との問題が解決されるまで出場を禁じ、状況は1年以上続いた。最終的に合意が成立し、8人が帰国し、残る選手は欧州各地に散った。コチシュとチボル、プスカシュはスペインに渡り、プスカシュはレアル・マドリード、コチシュとチボルはバルセロナに入った。バルセロナへは、かつてのチームメイトで欧州屈指のスターだったラースロー・クバラの推薦で迎えられ、交渉中はスイスのヤング・フェローズに在籍した。

最初の1958年から59年のシーズンはスペイン・リーグと国王杯を制し、翌シーズンもリーグを制した。1960年から61年の欧州チャンピオンズカップでは、前年に大会五連覇していたレアル・マドリードを破った。決勝の相手はベンフィカで、会場はベルンのヴァンクドルフ競技場、つまり1954年のワールドカップ決勝でコチシュとチボルが敗れた場所だった。試合前、コチシュは悲観的で「この試合には勝てないだろう」と話したという。開始20分に得意のヘディングで先制したが、ベンフィカに逆転され、後半10分には1対3とされた。晩年は胃がんのほか動脈硬化を患って左足を切断し、49歳で亡くなったが、誤って病院から転落したとも、自ら飛び降りたとも言われている。1999年には、ワールドサッカー誌の20世紀の偉大な選手100人で68位に選ばれた。

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