伝記
ジャン・ルノワールは、1894年9月15日にパリのモンマルトルで、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールと妻アリーヌの次男として生まれたフランスの映画監督、脚本家、俳優である。幼いころ南フランスに移り住み、父の絵のモデルを務めさせられた。各地の学校を転々とし、寄宿学校では学業が苦手な劣等生で、頻繁に学校から逃げ出していた。のちに偵察飛行隊のパイロットを務めたが、偵察中に片足を銃撃され、その傷の痛みに終生悩まされた。療養中にチャールズ・チャップリンやD・W・グリフィスらの映画に深い感銘を受け、映画に強い興味を持った。1920年、前年に亡くなった父の絵のモデルをしていたカトリーヌ・エスランと結婚した。大戦が終わると陶器を作っていたが、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚なる妻』やイワン・モジューヒンの『火花する恋』などに影響を受け、本格的に映画監督を志した。
1924年、カトリーヌ主演の映画『カトリーヌ』に出資して脚本を書き、同年のカトリーヌ主演の『水の娘』で監督デビューを果たした。1926年には『女優ナナ』を監督した。高い評価を得てサイレント期の代表作とされたが、興行的には失敗して負債を抱え、父の絵を売って借金を返した。1934年には、季節労働者の姿をドキュメンタリーのような手法で描いた『トニ』を発表した。徹底したリアリズムで描かれたこの作品は、のちのネオレアリズモに影響を与えたという。1937年には反戦映画の名作『大いなる幻影』を監督し、ほかにも『のらくら兵』『どん底』『ゲームの規則』など、興行的には失敗が多いものの傑作と評価される作品を発表した。ルネ・クレールやマルセル・カルネらとともに、戦前のフランス映画界を代表する映画監督となった。
1939年、イタリアに渡って、『トニ』などで助手を務めた当時32歳のルキノ・ヴィスコンティを助監督にして『トスカ』の撮影を行ったが、撮影中にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、製作を放棄してフランスに戻った。1940年にドイツがフランスに侵攻すると、戦火を避けて12月にマルセイユとポルトガルを経由し、船でアメリカへ渡った。この船でサン=テグジュペリと相部屋になり、親交を結んだ。12月31日にアメリカに着き、ロバート・フラハティに迎えられた。20世紀フォックスと契約し、ハリウッドの撮影システムに困惑しながらも、『南部の人』や『自由への闘い』などを創り上げた。1946年に市民権を得たが、フランス国籍は捨てなかった。1949年にインドへ渡り、1951年に初のカラー映画『河』を撮った。父譲りの美しい色彩感覚が評価され、ヴェネツィア国際映画祭の国際賞を受賞した。1952年にイタリアで『黄金の馬車』を撮ったのち、フランスに戻って『フレンチ・カンカン』を発表し、商業的な成功を収めた。
1969年のテレビ映画『ジャン・ルノワールの小劇場』が最後の監督作品となり、その後は亡命時代の知己を訪ねてアメリカで暮らし、終生フランスには戻らなかった。1974年に『ジャン・ルノワール自伝』を出版し、翌年にハワード・ホークスとともにアカデミー賞名誉賞を受けた。1979年2月12日、ビバリーヒルズの自宅で死去し、オーブ県のエソイエ墓地に両親とともに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- モルタザー・モタッハリー (1979年没)
- 朝永振一郎 (1979年没)
- 楊鍾健 (1979年没)
- Peter Donlon (1979年没)
- Johan Borgen (1979年没)
同じ地域に関係する人物
- ルーク・ペリー (2019年没)
- バディ・ハケット (2003年没)
- ヴィクター・マチュア (1999年没)
- ローレンス・ティアニー (2002年没)
- ルクレティア・ガーフィールド (1918年没)