HISTORICAL PERSON · 1979年没

ネルソン・ロックフェラー

アメリカの実業家・政治家。ニューヨーク州知事を務め、第41代副大統領となった。祖父はスタンダード石油の創業者ジョン・ロックフェラー。

生涯
1979年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(バーハーバー)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ネルソン・アルドリッチ・ロックフェラーは、1908年7月8日にメイン州のバー・ハーバーで生まれたアメリカ合衆国の実業家であり政治家で、ニューヨーク州知事と第41代副大統領を務めた。愛称はロッキーである。ジョン・ロックフェラー2世の次男で、姉が1人、のちに弟が3人生まれた。父方の祖父はスタンダード石油を創業したジョン・ロックフェラー、母方の祖父は共和党保守派の実力者だったネルソン・オルドリッチ上院議員である。四男のウィンスロップはアーカンソー州知事を務め、末弟のデイヴィッドはチェース・マンハッタン銀行の経営者となった。

1930年にダートマス大学を卒業して家業に従事し、特にベネズエラでの石油採掘に深く関わった。第二次世界大戦中には、このベネズエラでの経歴を買われて、ルーズベルト大統領からラテンアメリカ担当の国務次官補に任命された。トルーマン政権でも国際開発の顧問を務めた。1953年に共和党のアイゼンハワーが大統領になると、外交問題の顧問や政府組織に関する大統領顧問委員会の委員長、保健教育福祉次官を歴任して側近として活躍した。1956年に連邦政府の役職を退き、ニューヨーク州での政治活動に専念した。

1958年のニューヨーク州知事選で民主党現職のアヴェレル・ハリマンを破って当選し、1959年に就任して1973年まで知事を務めた。教育政策の拡充に努め、ニューヨーク州立大学を全米最大の公立大学に育てた。都市部の人口増加に対応して州都市開発公社を設立し、高速道路網や低所得者向けの公営住宅を整備し、ニューヨーク市の交通システムを管理する機構の改革にも取り組んだ。一方で麻薬の取り締まりに力を入れ、コカインなど特定の麻薬の所持の量刑を第2級殺人とほぼ同じにする一連の立法を行った。これはロックフェラー麻薬法と総称され、全米で最も厳しい麻薬取締法として知られた。1971年にアッティカ刑務所で囚人の暴動が起きたときは、州兵を送って鎮圧し、毅然とした姿勢を示した。反共主義の立場から、ニクソン政権のベトナム、カンボジアでの政策を強く支持し、多くの活動家から非難された。

最大の目標は大統領になることで、1960年、1964年、1968年と三度、共和党の指名をめざした。1960年は現職副大統領のニクソンが指名を獲得した。1964年は最有力と見られたが、自身の離婚問題もあって、保守派のバリー・ゴールドウォーター上院議員との激しい争いの末に指名を逃した。この争いは、共和党の主導権が東部の穏健派から西部の保守派へ移る契機になったと一般に考えられている。1968年にはいったん不出馬を表明したが、キング牧師の暗殺を契機に出馬を表明し、再びニクソンに敗れた。

1974年にニクソンが辞任し、ジェラルド・フォードが大統領に昇格すると、ロックフェラーは副大統領に指名され、12月10日に上院、19日に下院で承認された。憲法修正第25条により副大統領に就任した2人目の人物である。大きな役割を果たすと期待されたが、ラムズフェルドら大統領の側近グループがその権限の強大化を恐れ、また路線の対立もあって、政策への影響は抑えられた。1975年11月、翌年の選挙で副大統領候補としての指名を求めないと明言し、1977年に副大統領職を去った。1979年1月26日に心臓発作で急死し、70歳であった。モダンアートの収集家として知られ、母が設立に関わったニューヨーク近代美術館の活動を引き継いだ。

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