伝記
ウィリアム・ハワード・スタインは、1911年6月25日にニューヨーク市で、ユダヤ系の家庭に生まれたアメリカの生化学者である。父フレッド・M・スタインは、早くに引退して、ニューヨークの地元の保健団体を支えた実業家で、母ベアトリス・ボーグ・スタインは、子どもの権利を擁護する活動家であり、放課後の活動を考案した人であった。社会の福祉を強く擁護した両親は、幼いころから生命科学に対する関心を育てた。子どものころは、コロンビア大学教育学部が後援して新設された「進歩的」な学校のリンカーン・スクールに通い、遠足や科学の課題を通じて自然科学に親しんだ。16歳のとき、高等教育に備えて、ニューイングランドのフィリップス・エクセター・アカデミーに移った。
1929年にハーバード大学に化学を専攻して入学し、大学院生として1年を過ごしたあと、1934年にコロンビア大学の内科外科医学校の生物化学科に移って、生化学に専念した。当時の学科長ハンス・サッチャー・クラークは、のちに20世紀前半を代表する生化学者となる優秀な大学院生を多く集めていた。1936年、大学院に在学中に、フィービー・ホクスタダーと結婚し、3人の息子をもうけた。1937年に、エラスチンのアミノ酸組成についての論文で博士号を取得した。この研究では、1934年にナチスの脅威を逃れて合衆国に亡命したユダヤ系ドイツ人の生化学者マックス・ベルクマンから紹介された二つの沈殿剤を用いて、アミノ酸のグリシンとプロリンをそれぞれ分離した。学業を終えると、ロックフェラー研究所で、ベルクマンのもとで働いた。
1939年にスタンフォード・ムーアがベルクマンの研究室に加わり、二人はアミノ酸の研究を始めた。ムーアは、協力の最初の数年で、生涯続く共同作業の仕組みを作り上げたと述べている。この研究は第二次世界大戦の勃発で中断され、スタインはベルクマンのもとに残り、びらん剤が人体に及ぼす分子レベルの影響を研究した。1944年にベルクマンが亡くなると、所長ハーバート・ガッサーの計らいで、二人はアミノ酸の研究を再開した。ジャガイモのデンプンを固定相とするカラムクロマトグラフィーでアミノ酸を分離して定量する方法を開発し、ニンヒドリンによる発色反応で量を測った。分析には1つのタンパク質につき2週間かかったため、イオン交換クロマトグラフィーなどの方法を試して、所要時間を5日にまで縮め、ダリル・スパックマンの協力のもと、最初の自動アミノ酸分析装置を完成させた。
リボヌクレアーゼの構造と機能に関する研究により、クリスチャン・アンフィンセン、ムーアとともに、1972年度のノーベル化学賞を受賞した。長くロックフェラー研究所の教授を務め、1961年にシカゴ大学、1964年にハーバード大学の客員教授も務めた。1969年、コペンハーゲンのシンポジウムの数日後に発熱したあと、突然の麻痺に襲われ、ギラン・バレー症候群と診断された。生涯四肢麻痺が残ったが、同僚たちによれば精神とユーモアの感覚は衰えず、若い同僚たちの研究を導き続けた。1980年2月2日、68歳で予期せぬ心不全を起こして、ニューヨークで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- アレクサンデル・ネスメヤノフ (1980年没)
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