伝記
高山忠雄は、1904年6月24日に東京で生まれたサッカー選手であり、教育者である。幼いころから神戸で育ち、1911年から1917年まで、神戸市東灘区にある御影師範附属小学校で学び、そこでサッカーを覚えた。その後、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に進んだ。神戸一中の時代には、1918年の第1回日本フートボール優勝大会に出場している。白洲次郎は、神戸一中サッカー部の1年先輩にあたる。
1919年9月22日に行われたチェコスロバキア軍チームとの親善試合では、神戸一中が0対8で完敗した。相手は短いパスをつなぐ戦法を使い、生徒たちが想像もしていなかったもので、彼らは、得点するにはイギリス式のクロスを使うものと考えていたという。これが最大の衝撃だったと伝えられる。
神戸一中の卒業は1921年とも1922年ともいわれる。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、快足のフォワードとして活躍した。1927年10月に開催された第4回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全国優勝競技会(第7回天皇杯全日本サッカー選手権大会)には、神戸一中および東京帝大の後輩にあたる若林竹雄らとともに、神戸一中クラブのメンバーとして出場し、大会優勝に貢献した。
1930年5月に東京で開催された第9回極東選手権競技大会では、サッカー日本代表に選ばれた。5月25日のフィリピン戦でデビューし、5月29日の中華民国戦で1得点をあげ、2試合に出場して、大会優勝に貢献した。1931年に大学を卒業した後は、外務省、文部省、浜松工業専門学校(現在の静岡大学)の教授などを経て、1948年から1965年までの18年間、母校である兵庫県立神戸高校の校長を務めた。
戦後復興期の新制高校の土台づくりに力を尽くす一方で、サッカー部の指導にも情熱を注ぎ、自らプレーの模範を示して、全国選手権やインターハイに何度もチームを導いた。大仁邦彌、細谷一郎などの日本代表選手を育てた。1965年4月から武庫川女子大学の教授となり、1972年からは宝塚市の教育長を務めた。1980年7月1日、東京都で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- サラーフッディーン・アル=ビータール (1980年没)
- ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ (1980年没)
- ジョン・W・マコーミック (1980年没)
- ロモロ・ヴァリ (1980年没)
- ヤコブス・ヨハンネス・フーシェ (1980年没)