伝記
佐藤栄作は、1901年(明治34年)3月27日、山口県熊毛郡田布施村(現在の田布施町)に、酒造業を営む佐藤秀助と茂世の三男として生まれた。のちに首相となる岸信介は実の兄にあたる。地元では兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評されたという。小学校には1907年に入学し、肌が黒かったために「ごぼう」とあだ名され、一方で佐藤家の坊ちゃんとして「栄だんさま」とも呼ばれた。夏は家のそばの小川で真っ黒になって泳ぐ、自然児だった。旧制高校の受験では名古屋の下宿で池田勇人と泊まり合わせ、五高に進んだ。成績は仲小路彰が1番、佐藤が2番だったとされる。1921年に東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入り、真面目でおとなしい学生だった。
1923年12月に高等文官試験(行政)に合格した。口述試験があまりにあっさり終わったため、筆記の出来が悪く見込みがなかったのだと思い、涙が出る思いで歩いて帰ったと、のちに本人が語っている。就職先は、親戚の松岡洋右が頼んだ日本郵船が会社の都合で取り消しとなり、浅野セメントも決まりかけたが、結局は鉄道省に入った。1924年5月、門司駅助役として勤めを始めた。1926年には許嫁だった従妹の寛子と結婚し、佐藤家本家の婿養子となった。1934年からは2年間、在外研究員として米国と欧州を視察した。1940年に監督局総務課長、翌年に監督局長となり、陸上交通事業調整法の運用に力を注いだ。1941年に帝都高速度交通営団が成立した際には、私鉄2社の無駄な競争をやめさせ営団に一本化すべきだと主張して主導した。1944年4月には大阪鉄道局長となったが、これは左遷だったとされる。ただ、そのおかげで兄が受けた公職追放を免れた。
1947年に運輸次官となり、1948年に退官して民主自由党に入った。遠縁の吉田茂と親しく、同年の第2次吉田内閣では、議員でないまま内閣官房長官に就いた。池田勇人とともに「吉田学校」の代表格とされ、1949年の総選挙で初当選し、自由党の幹事長にもなった。造船疑獄では逮捕寸前になったが、法務大臣の指揮権発動により免れ、その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されたものの、国連加盟恩赦で免訴となった。1957年2月に自民党へ入党し、兄の岸を支えて党総務会長を務め、第2次岸内閣では大蔵大臣となり、「ブラザーズ・カンパニー」と呼ばれるほどの重鎮になった。池田内閣の高度成長路線には批判的で、「社会開発」「安定成長」「人間尊重」を掲げ、自らの政権構想を練った。
1964年7月、池田の3選を阻もうと総裁選に出馬した。池田、藤山愛一郎との三つ巴の激戦となり、池田が過半数をわずかに超えて辛勝したため佐藤は敗れたが、3か月後、病に倒れた池田の後継に指名され、11月に内閣総理大臣に就任した。兄の岸と同様に、次点から後継者に選ばれた形だった。就任後は、ILO87号条約の批准や日韓基本条約の批准などを、野党の激しい抵抗を押し切って進めた。1965年8月には首相として初めて沖縄を訪れ、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と声明した。在任中に沖縄返還を実現させたが、その交渉では、有事の核の持ち込みを事前協議のうえで認める密約があったと、後に密使を務めた若泉敬が1994年に公表した。首相在任は連続2,798日で、昭和時代では最長の長期政権となり、20世紀生まれ初の首相でもあった。ノーベル平和賞を受け、1975年(昭和50年)6月3日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Valeri Popenchenko (1975年没)
- ピエル・パオロ・パゾリーニ (1975年没)
- クヌト・クローン (1975年没)
- アンドレアス・エンビリコス (1975年没)
- アリストテレス・オナシス (1975年没)