伝記
ムハンマド・アンワル・アッ=サーダートは、1918年12月25日、エジプトのミヌーフィーヤ県ミト・アブー・アル=クムで、貧しいスーダン系エジプト人の家の13人兄弟の一人として生まれた。日本では存命中から現在まで、外務省や報道が一貫して「サダト」と表記してきた。1937年末にカイロの王立陸軍士官学校の第1期生として卒業し、通信部隊を経て、第3旅団に転属した。そこで2期生のガマール・アブドゥル=ナーセルらと出会い、イギリスの支配から祖国を解放しようとする士官たちの運動に、ひそかに加わった。1939年にカイロの陸軍通信学校に入学し、卒業時には生徒代表として答辞を読んだ。
第二次世界大戦中の1942年、ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団がエル・アラメインまで迫ると、サダトはナーセルらと集まり、ドイツ軍に呼応して、カイロでワフド党政権に代わる政権を擁立する計画を進めた。さらにエジプト陸軍の飛行機でドイツ軍陣地まで飛ぼうとしたが、離陸直前に機体が大破して失敗した。その後、イギリス軍将校に扮したドイツの諜報員が逮捕されて自白し、サダトの名が上がって軍法会議にかけられた。証拠不十分で銃殺は免れたものの、軍籍を剥奪されて投獄された。1944年に脱獄し、終戦までカイロの日本庭園に潜伏した。ナーセルとともに自由将校団を結成して1952年のクーデター(エジプト革命)に加わり、革命の発表をラジオとテレビで国民に伝えた。
革命後の1953年に共和制へ移ると、ナーセルを支え、1954年に国務大臣となった。1960年から1968年まで人民議会議長を務め、1964年と1969年に副大統領に任命された。1970年9月28日にナーセルが死去すると、大統領代行となり、10月15日に正式に大統領に就任した。ナーセルの社会主義的な経済政策を改めて経済の自由化を進め、イスラム主義の運動を解禁した。1971年9月、国名をエジプト・アラブ共和国に改めた。1973年10月6日にはシリアと共同でイスラエルに開戦して第四次中東戦争を主導し、イスラエル軍に大打撃を与えて、国民的英雄となった。この戦争の前にはソ連の軍事顧問団を追放しており、1976年までに親ソ・反米の外交路線を、反ソ・親米へ完全に転換した。
1977年にはイスラエルのベギン首相の招きでエルサレムを訪問し、翌年、アメリカのカーター大統領の仲介でキャンプ・デービッド合意に至り、1979年にはエジプトとイスラエルの平和条約が結ばれた。サダトはベギンとともに1978年のノーベル平和賞を受けた。しかしこの単独和平は、パレスチナのアラブ人への裏切りと受け取られ、エジプトはアラブ連盟を追放されて、反感を招いた。経済自由化の結果、貧富の差が広がり、腐敗も横行した。1981年9月には、およそ1600人の反対派や知識人を拘束し、国際的な非難を浴びた。
1981年10月6日、第四次中東戦争の戦勝記念パレードを観閲中に、イスラム復興主義過激派のジハード団に属するハリド・イスランブリ砲兵中尉らに暗殺された。停止した砲兵車両から暗殺隊が飛び降り、手榴弾を投げて、突撃銃を撃ち込んだ。サダト自身が殺される日が近いと友人に語っており、当日も防弾チョッキを着けなかったという。銃撃戦で11人が死亡し、38人が負傷したと伝えられる。サダトは病院に運ばれたが、同日午後7時50分に死亡が発表され、副大統領のホスニー・ムバラクが後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ガイ・バトラー (1981年没)
- マーティン・ロイドジョンズ (1981年没)
- サミュエル・バーバー (1981年没)
- モハンマドホセイン・タバータバーイー (1981年没)
- マーガレット・リンゼイ (1981年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・ナギーブ (1984年没)
- ロトフィア・エルナジ (2002年没)
- シェリーフ・イスマイール (2023年没)
- アフマド・ブン・トゥールーン (884年没)
- ナリマン・サディク (2005年没)