伝記
オマール・ネルソン・ブラッドレーは、1893年2月12日にミズーリ州ランドルフ郡の辺地、クラーク近郊で、貧しい学校教師の息子として生まれたアメリカの軍人である。最終階級は元帥で、初代の統合参謀本部議長を務めた。父の勤める学校に通ったが、9歳のときに父が死去し、母とともにモバリーに移った。モバリー高校では優等生で、野球とフットボールのキャプテンを務めた。卒業後は鉄道会社の事務員をしながらミズーリ大学で法律を学ぶつもりだったが、日曜学校の教師にウェストポイントを勧められた。地区試験では2番目の成績だったが、首席の生徒が入学を辞退したため、1911年に陸軍士官学校に入学した。学業のほか、野球とフットボールでも優れた成績を上げ、3、4年次には国内でも指折りの大学選手と見られた。
1915年に卒業したが、この学年は将来の多くの将軍を出し、「星が降ってきた学年」と呼ばれた。結局59名の将官を輩出し、ブラッドレーとアイゼンハワーが元帥まで昇進した。1916年12月28日に、故郷で向かいに住んでいたメアリー・エリザベス・クエイルと結婚した。歩兵として任官し、ヨーロッパの戦場は経験せず、第一次世界大戦ではモンタナ州の銅山警備の任務についた。戦間期には教官として働き、1920年から1924年までウェストポイントで数学を教えた。1938年からはジョージ・マーシャル陸軍参謀総長の直接の配下で働き、1941年2月に准将となった。
第二次世界大戦で前線の指揮を執ったのは1943年からである。北アフリカに派遣されて、カセリーヌ峠の戦いで大損害を受けた第2軍団の全面改組を提案し、4月にパットンの後任として第2軍団司令官となり、チュニジアとシチリア島の戦いに従事した。1944年にはフランス侵攻の準備のためロンドン入りし、ノルマンディー上陸作戦の当日は第1軍司令官として陣頭に立った。7月にはコブラ作戦を計画し、地上軍の前進に先立つ短時間の徹底的な爆撃によって、ドイツ軍の防衛線を突破した。ただ、この爆撃では上級将校を含む数百名のアメリカ兵が犠牲になった。やがて第12軍集団を率い、1945年4月には4個軍、48個師団、約130万人にのぼる大部隊となった。これは一人の軍人が指揮する部隊としてアメリカ陸軍史上最大とされる。一方で、ファレーズ・ポケットでパットンの軍団を停止させたために、約24万名のドイツ軍将兵が脱出したとされ、これを彼の大きな誤りとする見方がある。
戦後は2年間復員軍人局を率い、1948年に陸軍参謀総長、1949年8月に初代の統合参謀本部議長となった。1950年6月には来日し、マッカーサーと会談している。同年9月に陸軍元帥に昇進し、五番目で最後の陸軍元帥となった。朝鮮戦争では国防総省の担当者として主要な軍事政策を司り、戦争の拡大を主張したマッカーサーの解任をトルーマンに説得した。1951年の議会では、拡大は「間違った時に間違った場所で間違った相手との間違った戦争」に巻き込むと述べた。退役後は民間企業の会長なども務め、回想録を1951年に出版した。1970年の映画『パットン大戦車軍団』では助言者を務め、1977年にはフォード大統領から大統領自由勲章を授与された。1981年4月8日にニューヨークで心不整脈のため死去し、アーリントン国立墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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