伝記
トマス・モアは、1478年2月7日にロンドンで、法律家の家に生まれたイングランドの法律家、思想家、人文主義者である。父ジョンは弁護士で、のちに判事となり、母はアグネス・グレンジャーといった。6人きょうだいの2番目で、長男だった。聖アントニー校で学んだのち、慣習に従い、カンタベリー大司教で大法官のジョン・モートンの家に奉公して教育を受けた。この枢機卿は人文主義を熱心に支持し、若いモアを高く評価して、オックスフォード大学への進学を後押しした。1492年からオックスフォードでラテン語などを2年間学んだが、卒業せずに退き、1494年にニュー法学院へ、1496年には人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院へ進み、1501年に法廷弁護士の資格を得た。1490年代の終わりごろから詩を書き、エラスムスと知り合って親交を結んだ。エラスムスは、モアが一度は法律家の道を捨てて修道士になろうと考えたと伝えている。
1504年に下院議員に選ばれ、同年ジェーン・コルトと結婚した。ジェーンは4人の子を産んで24歳で亡くなり、数週間後に、裕福な年上の寡婦アリス・ミドルトンと再婚した。1510年にはピコ・デッラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を出版し、著述も盛んになった。1515年からヘンリー8世に仕え、ネーデルラントへの使節などを務めて信任を得て、1521年にナイトの爵位を授けられ、1529年には官僚で最高位の大法官に就いた。エラスムスの『痴愚神礼讃』は1509年にモアの家で執筆されている。モアは子どもたちのためにチェルシーの屋敷に小さな学校を開き、自らも講義した。
『ユートピア』は、エラスムスの著作やヴェスプッチの旅行記『新世界』に触発され、1515年から翌年にラテン語で書かれた。ユートピアはモアの造語で、「どこにも無い場所」に「善き場所」の意味を加えた言葉である。ヒュトロダエウスという人物の見聞を聞くという設定で、第1巻ではイングランドの現状を批判し、第2巻では赤道の南にあるというユートピア国の制度と習慣を描く。モアは、自然に従って生き、私有財産を持たない共同社会がありうると確信し、自由で平等な戦争のない理想社会を描いたとされる。フランドルとの羊毛取引のために農場を囲い込む地主たちが村落共同体を壊し、農民を追い出す現状を嘆き、羊が人間を食べつくすという意味の言葉を残した。
ところが、離婚問題でヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と対立すると、王はモアに助言を求めた。熱心なカトリック信徒で、3年間に6人の異端者を処刑したほどのモアは、離婚を正当化する根拠はないと告げた。1532年5月15日にヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることが承認されると、モアは翌日大法官を辞職した。1534年の国王至上法に反対して査問委員会にかけられ、反逆罪とされて4月17日にロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首された。首はロンドン橋に晒され、この処刑は法の名のもとに行われた最も暗黒な犯罪とも言われる。1935年、同年に処刑されたジョン・フィッシャーとともに、没後400年でカトリック教会と聖公会の聖人となり、記念日は6月22日である。2000年には、政治家と政治に携わる人々の守護聖人とされた。
同じ年に亡くなった人物
- Jodocus Badius (1535年)
- ヴァルター・フォン・プレッテンベルク (1535年)
- ヨアヒム1世 (ブランデンブルク選帝侯) (1535年)
- バルトロメオ・トロンボンチーノ (1535年没)
- ロレンツォ・コスタ (1535年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェーン・グレイ (1554年没)
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1410年没)
- エリザベス・オブ・ヨーク (1503年没)
- キャサリン・ハワード (1542年没)
- メアリー・アン・ニコルズ (1888年没)