伝記
イワン・フリストフォーロヴィチ・バグラミャンは、1897年12月2日に生まれ、1982年9月21日にモスクワで没したソ連の軍人で、ソ連邦元帥である。アルメニア人としての本名はホヴハネス・ハチャトゥリ・バグラミャンといい、ロシアではイワンの名で通した。第二次世界大戦中、非スラブ系の将校として初めて方面軍を指揮した人物とされ、ソ連邦英雄の称号を2度受けた。
ロシア帝国のエリザヴェートポリ(現在のギャンジャ)近郊の村で、アルメニア人の鉄道労働者の家に生まれた。1915年にロシア帝国軍に召集され、カフカース戦線でオスマン帝国と戦い、1917年に准尉学校を卒業した。アルメニア共和国が成立すると、アルメニア人の連隊に加わり、1918年5月には、アルメニア軍がトルコ軍に重要な勝利を収めたサルダラパトの戦いに参加している。1920年に赤軍に加わり、騎兵連隊を率いてロシア内戦に従軍した。その後、妻のタマラと結婚し、息子と娘が生まれた。1923年に騎兵連隊の長となり、1931年まで務めた。レニングラードの騎兵学校、フルンゼ名称軍事アカデミーに学び、1938年に参謀本部アカデミーを卒業した。アカデミーの同期のなかには、エリョーメンコやジューコフのように昇進する者もいたが、バグラミャンは足踏みが続いた。1940年、ジューコフがキエフ特別軍管区の司令官に昇進すると、彼のもとで働きたいと手紙を書いた。ジューコフはこれを受け入れ、彼が書いた作戦の文書に感心して、作戦を担う参謀部の職に引き上げた。
1941年に独ソ戦が始まると、南西戦線参謀部の作戦課長に任命され、キエフの防衛戦に参加した。ドイツ軍の侵攻は避けられないと見ていた点で、多くの国境部隊と違い、上官のキルポノス将軍と見解が一致していたとされる。同年12月末から南西方面の参謀長となり、後に南西戦線の参謀長を務めた。1942年7月から第16軍の司令官となり、この軍は1943年4月に第11親衛軍となった。1943年11月には第1沿バルト戦線の司令官となり、最も名誉ある指揮を任された。1944年のバグラチオン作戦では、ベラルーシのヴィテプスク・オルシャ正面でドイツ中央軍集団を粉砕し、ドヴィナ川を強行して渡った。この功績により、同年7月29日に1つ目のソ連邦英雄の称号とレーニン勲章を授与された。戦線の部隊はバルト海沿岸を確保し、リガ付近で30個師団以上のドイツ軍を本国と分断した。1945年4月からは第3白ロシア戦線を指揮して東プロイセン作戦に参加し、ケーニヒスベルクを奪取した。
戦後は、1945年から1954年まで沿バルト軍管区の司令官を務めた。1954年から国防省の主任監察官と国防次官を務め、1955年3月にソ連邦元帥となった。1956年から1958年は参謀本部軍事アカデミーの校長を務め、1958年から国防次官と軍後方部長を兼ねた。1961年にソ連共産党中央委員会の委員となり、第2期から第10期のソ連最高会議代議員にも選ばれた。1977年12月1日に2つ目のソ連邦英雄の称号を受け、レーニン勲章を7個、赤旗勲章を3個などを授かった。1982年9月21日に死去し、赤の広場のクレムリンの壁の墓所に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ヤコヴ・ゴトヴァツ (1982年没)
- ハラルド・アートル (1982年没)
- エドワード・ハム (1982年没)
- アーヴィング・ゴッフマン (1982年没)
- ルートヴィヒ・ビーベルバッハ (1982年没)
同じ地域に関係する人物
- Viktor Vlasov (2002年没)
- ヴァレリヤン・クイビシェフ (1935年没)
- Alexander Bek (1972年没)
- ヴラディーミル・ソフロニツキー (1961年没)
- セミョーン・ボグダーノフ (1960年没)