伝記
レオニード・イリイチ・ブレジネフは、1906年12月19日、ロシア帝国のエカテリノスラフ県カメンスコエ(現在のウクライナのカーミヤンシケ)で生まれたソビエト連邦の政治家である。ウクライナのロシア人で、生涯ウクライナ訛りと風習を保った。父イリヤは、祖父の代から地元の金属工場の労働者だった。1921年に家族とクルスクへ転居し、15歳で製鉄所に勤め、1923年に共産党青年組織のコムソモールに加わった。1924年から1927年までクルスクの職業技術学校に学んで初級農業技師となり、土壌改良の仕事に就いた。1931年10月に共産党に入党し、ドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学んで、1935年5月に卒業した。同年10月に赤軍に入り、戦車部隊の政治委員となった。1936年末には同大学の校長になり、1939年5月にはドニエプロペトロフスク州党委員会の書記として防衛産業の組織に携わった。
1941年6月にドイツ軍が侵攻すると、市の産業を疎開させるために努力し、同年10月に旅団人民委員の階級を得て、南部方面軍の政治指導部次長となった。その後は、第18軍の政治部長を経て、大戦の終結時には第4ウクライナ方面軍の政治指導部部長としてプラハに入っていた。軍司令官ではなく政治委員として戦い、1946年8月に少将の階級で赤軍を去った。1950年にモルダヴィア共産党中央委員会の第一書記となり、1952年10月に党中央委員会と最高会議幹部会の一員となった。1953年にスターリンが死去すると、中将の階級でソ連軍政治総局の第一代理に任じられた。これは後援者フルシチョフの人事だった。1954年にカザフスタンの党第二書記、1955年に第一書記として開拓事業を指導した。
1956年2月にモスクワへ呼び戻されて、防衛産業や宇宙計画を担当する書記となり、1957年6月の党の指導権争いではフルシチョフを支持した。1960年5月には最高会議幹部会議長に就き、名目上の国家元首となった。外国旅行が可能になり、西側の高価な衣服や自動車に興味を深めた。フルシチョフの指導力が衰えると、1963年には追放計画に加担した。翌1964年10月、フルシチョフが事実上解任されると、第一書記に就任し、首相のコスイギンらとの集団指導体制を敷いた。1966年4月には第一書記の名称を、スターリンの肩書きだった書記長へ改めた。スターリン批判から逆行する動きを見せ、1966年の作家たちの裁判は抑圧的な文化政策への回帰を象徴した。1976年5月にはソ連邦元帥となった。
一方で、1976年からソ連経済は停滞した。農業への依存が大きいうえ、1970年代前半の大旱魃で、国際市場から大量の穀物を買い付けた。産業は国家が管理して市場に応えられず、技術革新が進まなかった。ブレジネフ自身が西側の高級車を好み、身内にもスキャンダルが絶えなかった。腹心のスースロフが揉み消してきたが、1982年1月にスースロフが死ぬと隠し通せなくなった。1979年6月には、アメリカのカーター大統領と戦略兵器制限条約に調印した。1982年11月10日に死去し、18年間に及ぶ最高指導者の座を終えた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴワディスワフ・ゴムウカ (1982年没)
- ジェヴデト・スナイ (1982年没)
- ソブーザ2世 (1982年没)
- ハンフリー・サール (1982年没)
- ウイリアム・ジオーク (1982年没)
同じ地域に関係する人物
- ブルーノ・ポンテコルボ (1993年没)
- ヴィトリド・ツェラスキー (1925年没)
- ドミトリー・ラヴリネンコ (1941年没)
- Anatoli Firsov (2000年没)
- セルゲイ・イワノフ (1910年没)