伝記
スタンフォード・ムーアは、1913年9月4日にイリノイ州シカゴで生まれたアメリカの生化学者である。父ジョン・ハワード・ムーアは当時シカゴ大学の法学部の学生で、母ルース(旧姓ファウラー)はスタンフォード大学を卒業していた。両親はスタンフォード大学で知り合って1907年に結婚しており、出会った場所を記念して、息子にこの名がつけられたといわれる。4歳でイリノイ州ウィネトカの小学校に通い始めた。まもなく一家は、父が法学部の教授に迎えられたため、テネシー州ナッシュビルに移り、父は1949年の退職までヴァンダービルト大学で教えた。
ナッシュビルでは、ジョージ・ピーボディ教育大学付属のピーボディ校に通い、7年間の学校生活を通じて優等生だった。初めは英語と科学に関心があったが、のちに教師のR・O・ボーシャンと出会って、化学への興味を呼び覚まされた。1931年にヴァンダービルト大学に入学した当初は、航空機の設計と化学のあいだで迷っていた。しかしアーサー・ウィリアム・インガソルの影響で、有機化学と分子の構造への関心を深め、化学を専攻に選んだ。1935年に優秀な成績で卒業して学士号を取得し、最も優れた学生に贈られる創設者メダルも受けた。男子の社交クラブにも所属した。
1935年の秋、ウィスコンシン同窓会研究財団の奨学金を得て、ウィスコンシン大学に進み、カール・ポール・リンクの指導のもとで研究した。リンクは少し前までヨーロッパで、フリッツ・プレーグルとともに有機化合物の微量分析の方法に取り組んでいた人である。1938年に炭水化物とベンゾイミダゾール誘導体を扱った論文で、有機化学の博士号を取得した。この反応でできる数種のベンゾイミダゾールが、安定な結晶として容易に分離でき、単糖類を見分けるのに役立つことを示したものである。1939年に研究の将来は生化学にあるとわかり、ロックフェラー研究所のマックス・ベルクマンの研究グループに加わった。研究室の主な課題は、タンパク質の構造化学であり、選択的な沈殿剤でアミノ酸の組成を重量で調べる方法の開発に特に関心が持たれていた。この方向は、2年前にウィリアム・スタインが加わり、芳香族のスルホン酸がその目的に適することを示したことで勢いづいていた。ムーアはスタインと、卵白アルブミンと絹のフィブロインの加水分解物で良い結果を得たが、1941年の暮れに国が戦争状態に入ると、研究は止まった。
戦争中の1942年には、国防研究委員会で事務の仕事に就いた。ムーアは、スタインとの協力の最初の数年に、生涯続く共同作業の仕組みができたと述べている。1945年からスタインとの共同研究が本格化し、カラムクロマトグラフィーによるアミノ酸の定量分離法を基礎に、リボヌクレアーゼの構造の解明に取り組んだ。1958年にはスタインとともに、最初の自動アミノ酸分析装置を開発し、これがタンパク質の配列の決定を容易にした。1959年には、酵素の完全なアミノ酸配列を初めて決定したと発表した。1972年、リボヌクレアーゼの化学構造と触媒活性の結びつきの理解を深めた業績で、スタイン、クリスチャン・アンフィンセンとともにノーベル化学賞を受けた。1952年にロックフェラー研究所の生化学教授となり、1960年にはアメリカ科学アカデミーの会員に選ばれた。1982年8月23日にニューヨークで没した。遺産を「若い学者に、自分と同じ機会を与えるために」ロックフェラー大学に遺した。
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