HISTORICAL PERSON · 202年没

袁紹

後漢末の名門汝南袁氏の出身の武将。何進と協力して宦官勢力を壊滅させ、反董卓連合の盟主となった。最盛期には河北四州を支配したが、官渡の戦いで曹操に敗れて勢いを失い、志半ばで病死した。

生涯
202年没
死亡地
中華人民共和国(河北省 / 臨漳県)
出生地
中華人民共和国(商水県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河北省)

伝記

袁紹(?-202年)は、中国後漢末期の武将・政治家である。字は本初。豫州汝南郡汝陽県の人で、後漢で4代にわたり三公を輩出した名門、汝南袁氏の出身にあたる。生まれて間もなく父の袁成と死別し、叔父の袁逢と袁隗に育てられたとされる。幼くして郎に取り立てられ、20歳で濮陽の県令となって清廉との評判を得た。母の喪に3年、続けて父の喪にも服して孝を尽くし、6年の服喪ののちは洛陽に隠れ住み、名声の高い人物とだけ交際した。威厳のある風貌で快活、名門の出でありながら謙虚だったため、曹操をはじめ多くの人に慕われたという。

朝廷からの招聘には応じなかったが、宦官の趙忠らに危険視されていると聞いた袁隗に叱られ、何進の属官に召されて官途に就いた。侍御史・虎賁中郎将と進み、188年には西園八校尉の一つである中軍校尉を兼ねた。189年に霊帝が崩御して何進が外戚として実権を握ると、袁紹は董卓ら諸侯の軍を洛陽に召集して皇太后に決断を迫る策を献じた。何進はこれを採ったが、秘密が漏れて宦官に暗殺された。袁紹は宮中に兵を進め、宦官を老若を問わず皆殺しにした。その後、洛陽に入った董卓が少帝の廃立を提議すると、これに反対して席を立ち、冀州へ逃れた。

190年、各地の刺史や太守が董卓打倒の兵を挙げると袁紹も応じ、盟主に推されて車騎将軍を自称した。しかし董卓軍を恐れて洛陽を攻めようとせず、決戦を主張する曹操らから批判された。董卓は長安へ遷都して洛陽に火を放ち、袁隗・袁基ら袁氏一門は処刑された。191年には安否の知れない献帝に代え、幽州の大司馬劉虞の擁立を図ったが、袁術や曹操らに反対され、劉虞本人にも拒まれて断念した。連合軍はやがて瓦解し、後漢は群雄割拠の時代に入る。同じ袁氏の袁術とは、宗族の長を自負する袁術に憎まれたこともあって対立を深め、荊州の劉表に袁術の背後を突かせて孫堅が戦死するという戦果も挙げた。また、頼ってきた呂布が戦功を鼻にかけたため殺害を謀ったが、張邈に制止された。191年には韓馥から冀州牧の地位を譲り受け、沮授・田豊を配下とした。192年の界橋の戦いでは、麴義の奮戦で公孫瓚軍を破った。公孫瓚とはその後も長く争い、199年に易京城を地下道を掘り進めて陥落させ、滅ぼした。曹操を東郡太守に任じて支援し、長男の袁譚を青州に送って支配を固めさせるなど勢力を広げ、河北四州を領する最大勢力となった。

献帝を曹操が許に迎えると、袁紹は197年に曹操を押しのけて大将軍に任ぜられた。やがて曹操との関係は悪化する。199年、劉備が曹操に背いて救援を求めた際、田豊は好機として曹操を討つよう説いたが、袁紹は子の病を理由に断った。翌200年、袁紹は陳琳に檄文を書かせ、官渡の戦いに臨んだ。沮授や田豊が持久戦を唱えたのに対し、郭図や審配は速戦を主張し、袁紹は後者を採って、反対した田豊を投獄した。白馬・延津で顔良・文醜を失ったものの、兵力と物資で勝る袁紹軍は官渡へ進み、土山や地下道で曹操軍と攻防を重ねた。

曹操軍の兵糧が尽きかけるなか、袁紹軍の内部では沮授の軍権が削られるなど対立が深まっていた。10月、許攸は許都襲撃を説いたが容れられず、家族が審配に逮捕されたことにも嫌気がさして曹操に投降し、淳于瓊が守る烏巣の兵糧庫の所在を明かした。曹操は兵力の過半を率いて烏巣を強襲した。官渡の敗北以後、袁紹は勢いを失い、志半ばの202年5月に病死した。『三国志』魏志および『後漢書』に伝がある。

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