伝記
ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニアは、愛称の「ニノイ」で知られるフィリピンの政治家である。1932年11月27日、タルラック州コンセプシオンの地元の名士の家に生まれた。祖父はエミリオ・アギナルドの側近として活躍し、父もホセ・ラウレル政権下で活躍した政治家だったが、晩年は太平洋戦争中の対日協力を批判された。父の死後、ニノイは大学を中退してジャーナリストになった。1954年、ラモン・マグサイサイ大統領の下で働いていたとき、反政府グループであるフクバラハップのリーダー、ルイス・タルクを説得して投降させるよう命じられ、4か月に及ぶ熱心な説得の末に、タルクは無条件で投降した。これで名声が高まり、22歳でコンセプシオン市の市長に就任した。同年、コラソン・コファンコと結婚した。
1961年にタルラック州の知事に当選し、1966年には自由党の幹事長となった。1967年には35歳で上院議員に当選した。これはフィリピン史上最年少の上院議員当選の記録で、現在まで破られていないという。しかし1972年、フェルディナンド・マルコス大統領が全土に戒厳令を敷くと、反政府側の危険人物とされて、政府転覆の陰謀や武器の不法所持、殺人の容疑で逮捕・投獄された。1977年には死刑を宣告されたが、国民に人気のあるニノイを処刑することはできず、マルコスは1980年、アメリカで手術を受けさせるという名目で、彼を国外へ追放した。収監中、ニノイはカトリックの信仰や、ガンディー、マーティン・ルーサー・キングの著書から大きな影響を受け、非暴力を掲げてマルコス政権を批判するようになった。
1983年、フィリピンへの帰国を決意した。経由地の台北のホテルでは、日本のTBSテレビのインタビューに答えて、「明日は殺されるかも知れない。事件は空港で一瞬のうちに終わる」と話した。8月21日、台北から乗った中華航空811便でマニラ国際空港に到着した。機内には取材陣が多く同乗し、テレビカメラが撮影していた。そこへ3人の兵士が乗り込み、ニノイを機外へ連れ出した。ニノイは兵士とともにタラップを降り、10秒後に頭を撃たれて即死した。最後の言葉は、機を降りる直前に記者に言った、「必ず何かが起こるから、ビデオカメラを回し続けておいてくれ」だったという。
事件後、フィリピン政府は、空港警備員を装った男がアキノを射殺し、その場で射殺されたと発表し、新人民軍とつながるロランド・ガルマンの単独犯行だとした。しかし、TBSが撮影した映像には、兵士が「撃て」と命じる声が残っていた。TBSは1週間後に特別番組「アキノ白昼の暗殺」を放送し、政府発表の矛盾を指摘した。のちに、日本音響研究所の鈴木松美による鑑定で、暗殺に使われたのは兵士が携帯するコルト・ガバメントだったことが確認され、鈴木は、フィリピンの法廷で証言した。マルコスの指示で設けられた調査委員会は軍の高官を告発したが、彼らはすぐに無罪釈放され、滑走路の警備にあたった兵士たちが無期懲役を宣告された。
8月31日の葬儀には、200万人が街頭に出て棺を見送った。この暗殺は、散発的だった反マルコス運動を爆発させ、貧富の差を越えて多くの人々が立ち上がった。未亡人のコリー・アキノは1986年の大統領選挙に出馬し、国民の支持を得た。選挙管理委員会がマルコス勝利を発表すると、不正選挙だとして民衆が蜂起し、エドゥサ革命が起きた。マルコスはハワイに亡命し、独裁は終わった。ニノイは今もフィリピンの英雄とされ、暗殺されたマニラ国際空港は「ニノイ・アキノ国際空港」と改称された。
同じ年に亡くなった人物
- フェリックス・パパラルディ (1983年没)
- ジョン・ファンテ (1983年没)
- ヴァルター・シュテンネス (1983年没)
- アーリーン・ブラウン (1983年没)
- マイヤー・ランスキー (1983年没)
同じ地域に関係する人物
- Mariano Gomes (1872年没)
- アイリーン・ビエラ (2020年没)
- リチャード・ヘック (2015年没)
- ゲオルク・ヨーゼフ・カメル (1706年没)
- ホセ・リサール (1896年没)