伝記
アエミリウス・パーピニアーヌスは、古代ローマを代表する法学者である。142年ごろの生まれとされ、212年に没した。その生涯の詳細はよくわかっておらず、シリアのエメサの出身とされるが、150年ごろにアフリカで生まれたとする推測もある。法学者クィントゥス・ケルウィディウス・スカエウォラの弟子であった。
公職の経歴はマルクス・アウレリウス帝の時代に始まり、のちに皇帝となるセプティミウス・セウェルスとは親しい友人だったという。セウェルスが帝位に就くと、請願を扱う文書局長に任じられ、さらに近衛隊長官を務めた。この職は、セウェルスが211年に没するまで続いたとされる。皇帝の諮問会議の一員でもあった。セウェルスは死に先立って、二人の息子ゲタとカラカラをパーピニアーヌスに特に託したと伝えられる。
パーピニアーヌスは兄弟の間の平和を保とうとしたが、二人とも相手を除いて権力を独占することしか考えていなかったという。212年、カラカラは弟ゲタを殺害し、パーピニアーヌスにも死を命じた。理由は、この弟殺しを元老院に対して正当化することを彼が拒んだためとされる。このとき「親殺しを正当化することは、それを行うことよりもはるかに難しい」という言葉を述べたともいわれるが、この言葉が史実かどうかはかなり疑わしい。細部は伝承によって異なるものの、ゲタの殺害とパーピニアーヌスの死が結びついていたことは、ほとんど疑いがないとされる。
著作では、198年より前に書かれた全37巻の『問題録』と、204年から没年までの間に書かれた全19巻の『解答録』が最も重要とされる。『問題録』は、学説の検討と、著者が相談を受けて解決した事例を扱う書物である。『解答録』は実際の事例についての注釈である。ほかに2巻の『定義録』などがあり、ギリシア語の著作も伝わるが、これは後の時代の編纂物で『解答録』の断片を含むのではないかと疑われている。ユスティニアヌス帝の『学説彙纂』には、596の断片が保存されている。『学説彙纂』の編纂に使われた四つの文献群のうち、彼の著作は「パーピニアーヌス群」と呼ばれる一群をなしている。
法学者としては、判断の独立性と、衡平にかなう解決を求める姿勢が特徴とされる。この点で、技術的に厳格だった先人たちとは異なっていた。その才能と公人としての生涯、さらに正義の殉教者のような最期のために、「ローマ法学の王者」の一人、まさに法学者の代名詞と見なされてきた。モムゼンは彼を、ローマ最大の法学者とみた。426年の引用法は、法廷で引用できる法学者をガーイウス、パウルス、ウルピアーヌス、モデスティーヌス、そしてパーピニアーヌスの5人に限った。意見が割れて多数が得られないときや同数のときは、パーピニアーヌスの意見が優先された。弟子にはウルピアーヌスとパウルスがいる。西ゴート族のアラリック抄典やブルグンド人のローマ法にも彼の文章を集めた章があり、ブルグンドの法律は「パーピアヌス」と呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
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- セレヌス・サンモニクス (212年没)
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- 小コルニフィキア (212年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャチント・シェルシ (1988年没)
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