伝記
マルティン・ニーメラーは、1892年1月14日に生まれ、1984年3月6日に没したドイツの福音主義の神学者で、牧師であり、海軍軍人でもあった。反ナチ運動家として知られ、「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」で始まる言葉は、彼に由来するとされる。
現在のノルトライン=ヴェストファーレン州のリップシュタットで、ルター派の牧師ハインリヒと、母パウラの子として生まれた。弟のヴィルヘルムも、のちに牧師で歴史神学者となった。1900年に一家はエルバーフェルト(現在のヴッパータール)に移り、ニーメラーは1910年にこの地のギムナジウムを出た。ドイツ帝国海軍の士官を目指して海軍士官学校に入り、1912年に士官試験に合格した。1915年から潜水艦隊に配属され、地中海でマケドニア戦線の支援や、エジプト沖での機雷敷設、通商破壊活動に従事した。1917年1月からは艦長ヴァルター・フォルストマン大尉のもとで哨戒士官を務め、その艦にはのちの海軍総司令官カール・デーニッツも勤務していた。この哨戒の後、一級鉄十字章を授与された。同じ年の8月から大型の潜水艦に勤務し、11月にフランス領西アフリカのダカール港封鎖に加わった。そのとき、のちのノーベル賞受賞者アルベルト・シュヴァイツァーが乗る船が、港の封鎖で出航できなかった。1958年になって、シュヴァイツァーがこの出来事を手紙で伝えると、ニーメラーは封鎖に加わっていたことを認めた。1918年5月には小型潜水艦の艦長となり、南フランス沿岸での機雷敷設で、3隻の商船、計7万トンを沈めた。共和国政府を受け入れず、ヴァイマル共和国の海軍には入らなかった。
1919年4月にエルザ・ブレーマーと結婚した。ミュンスター大学の福音主義神学部に入って、父と同じ牧師の道を目指した。1920年3月、ルール地方で左翼勢力による蜂起が起きると、義勇軍の学生大隊の指揮官として、この鎮圧に加わった。神学試験を1923年に受けて、ミュンスターで牧師補になった。1924年以降の各種選挙では、ナチスに投票していた。1931年にベルリンの高級住宅地にあるダーレムの教会共同体の牧師に招かれ、1932年に就任した。
ナチスを支持する教会内の勢力である「ドイツ的キリスト者」との対立が生じ、1933年にナチスのアーリア条項が教会に導入されると、1933年9月に全国組織の牧師緊急同盟の設立を呼びかけた。この組織には全ドイツの3分の1の牧師が加わった。牧師緊急同盟とその周辺のグループは、反ナチス運動の組織である告白教会のさきがけとなった。告白教会は1934年5月に、バルメンで第1回全国告白会議を開いて設立され、カール・バルトらが起草したバルメン宣言が神学的な基盤となった。ニーメラーはその創立者の一人となった。根本では国家主義的な保守派として考えており、1934年の自伝『Uボートから講壇』にもそれを記した。1934年1月には教会指導者たちとともにヒトラーと面談したが、説得できなかった。不正義を憎み、国家の教会政策に抵抗した彼は、ナチスを恐れなかった。一方で、この時代の多くの保守主義者と同じ反ユダヤ主義的な傾向を持っていたという。1937年7月1日に逮捕され、1938年3月に禁固7か月の判決を受けたが、未決拘禁を通算して釈放が宣告された。しかしヒトラー個人の命令でゲシュタポに再び拘束され、ザクセンハウゼン強制収容所に連行された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョアキン・アゴスティーニョ (1984年没)
- モーシェ・フェルデンクライス (1984年没)
- Ross Taylor (1984年没)
- ジョン・コリア (陸上選手) (1984年没)
- イエジ・ポピエウシュコ (1984年没)
同じ地域に関係する人物
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- アルベルト・ケッセルリンク (1960年没)
- マックス・シェーラー (1928年没)
- ルドルフ・カール・ブルトマン (1976年没)
- ゲオルク1世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1596年没)