HISTORICAL PERSON · 216年没

Pantaenus

シチリア出身の神学者で、180年頃からアレクサンドリアの教理学校の重要人物。ストア派の哲学者からキリスト教に改宗し、哲学との調和を図った。

生涯
216年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
イタリア共和国(シチリア州)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

パンタイノスは、2世紀後半にアレクサンドリアで活動したキリスト教の神学者である。シチリアの出身とされ、アレクサンドリアの教理学校で重要な役割を果たした。没年は200年ごろとされるが、216年ごろに亡くなったとする説もあり、正確な日付は分かっていない。生涯や活動についての資料は少なく、確かなことも多くないとされる。

キリスト教に改宗する前は、アレクサンドリアで哲学を職業としていた。出発点はピタゴラス学派の教えだったとする見方もあるが、広くは受け入れられておらず、大多数の研究者はストア派の哲学者だったと考えている。改宗の理由は、同時代のキリスト教徒の模範的なあり方に触れたことだったと考えられている。哲学の素養があったため、キリスト教の教えをよく理解し、新しい宗教のすぐれた教師になったという。

皇帝コンモドゥスの時代(180年から192年)には、アレクサンドリアの教理学校の長を務めていた。この学校は最古の教理学校であり、のちにキリスト教神学の発展に大きな影響を与えた。パンタイノスは記録に残る最初の校長で、学校に独特の性格と組織を与えた人物とされる。教えは主として口頭によるもので、聖書についての講義を聞いた者の中には、カッパドキアの司教アレクサンドロスや、後継者となるアレクサンドリアのクレメンスがいる。クレメンスは師を「シチリアの蜂」と呼んだとされるが、これが本当にパンタイノスを指すかどうかについては異論もある。パンタイノス自身の著作は現存しない。アンティオキアのセラピオンがグノーシス主義の影響に対抗する際にも、その主な支持者になったとされる。

教師としての仕事のほかに、一時期は宣教師としてインドまで旅したと、カイサレイアのエウセビオスは伝えている。インドでは、使徒バルトロマイが残したというヘブライ文字のマタイ福音書を用いるキリスト教徒の共同体に出会ったという。ただし、聖トマスを意味するアラム語の「マル・トマ」という言い方を、言葉に不慣れなためにバルトロマイのヘブライ名「バル・トルマイ」と取り違えたのではないかとする研究者もいる。ヒエロニムスも、パンタイノスがインドへ赴いて、バラモンや哲学者にキリストを説いたと書いたが、エウセビオスの記述に頼ったものとみられる。インドでなく南アラビアやエチオピアへ行ったとする論者もいる。

パンタイノスの学校での役割については、早くから二つの見方があった。一方は、学校の長であり、すぐれた哲学者で多くの著作を残した人物とする見方で、他方は、宣教者、聖書の解釈者、口頭の教えの教師として記憶する見方である。前者は当たらないらしく、古い時代の長老たちが説教も対話も書き残さなかったのと同じだったと考えられている。聖書を寓意的に解釈する傾向や、ギリシア哲学によってキリスト教の教義を説明しようとする姿勢が、アレクサンドリア学派の特徴だとされ、その方向づけにパンタイノスの影響があったとされる。カトリック教会は聖人として7月7日に祝い、コプト教会は6月22日に祝う。後世の研究では、J・W・ハンソンやイラリア・ラメッリが、パンタイノスはクレメンスやオリゲネスに万人救済論を教えたと論じた。これに対してアンドルー・C・イッターは、クレメンスの考えには救いと自由意志の間に緊張があり、厳密な万物復興説を採ったとは限らないとして、この主張に疑問を投げかけている。

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