HISTORICAL PERSON · 紀元前210年代没

クレオメネス3世

スパルタ王。債務免除など大胆な改革を進めアカイア同盟と戦ったが、セラシアの戦いに敗れエジプトへ亡命後、反乱に失敗し自殺した。

生涯
紀元前210年代没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
ギリシャ共和国(スパルタ)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

クレオメネス3世は、アギス朝のスパルタ王である。在位は紀元前235年から紀元前222年で、父レオニダス2世の跡を継ぎ、スパルタの改革を試みた。生年は不明だが、紀元前265〜260年の間と推定される。母はクラテシクレイアである。

紀元前242年ごろ、父レオニダスはエウリュポン朝の共同王アギス4世の改革に反対して敗れ、追放されてアテナ神殿に逃げ込んだ。代わって従兄弟のクレオンブロトス2世が王となったが、アギスがコリントス地峡方面へ遠征した隙にレオニダスは復位し、逃れようとしたアギスを捕らえて一族もろとも処刑した。当時18歳前後のクレオメネスは、父の命でアギスの裕福な未亡人で女相続人のアギアティスと結婚させられた。狩猟の最中に急いで戻れと命じられ、街が婚礼の飾りつけの最中であるのを見て、結婚するのが自分だと知らされたという。父が処刑した人物の妻をめとることに疑念を抱いたが、婚礼はそのまま行われた。

紀元前235年に即位すると、クレオメネスはアギスにならって改革を始めた。そのころシキュオンのアラトス率いるアカイア同盟はペロポネソス半島の統一をもくろみ、アルカディアの都市群を攻撃していた。紀元前229年には、テゲア、マンティネアなどの都市がスパルタの側についた。同年、監督官たちは係争中のアテナイオン砦の制圧にクレオメネスを送り、アカイア同盟は開戦を決めた。アラトスはテゲアとオルコメノスに夜襲をかけたが失敗して撤退した。気づいたクレオメネスが遠征の目的を問うと、アラトスはアテナイオンの要塞化を止めるためだと答えた。クレオメネスは「差し支えなければ、なぜあなたたちが松明と梯子を持ってきたのか、理由を書き送ってくれないだろうか」と返した。

その後の戦いでクレオメネスは、パランティオンでアカイア軍の大軍が退却して戦わずに済み、リュケイオン山付近ではアカイア軍を蹂躙し、レウクトラ包囲でもアカイア軍を破った。こうして基盤を固めると、監督官たちに対する陰謀を進め、疲れた監督官たちを置いてスパルタに帰り、部下に襲わせた。5人のうち4人は殺され、アギラエオスだけが神殿に逃れて助かった。次にクレオメネスは自分の土地をすべて国家に納め、義父や友人、残る市民もこれに続いた。集めた土地は4000人の新市民に均等に再分配され、その半数は亡命していた旧市民、残りの大部分は傭兵であり、功のあったペリオイコイも含む。さらに子どもたちには厳しいスパルタ教育を課し、重装歩兵4000人を訓練して、マケドニア式の長槍サリッサを導入した。また、弟エウクレイダスをエウリュポン朝の王に据え、二王をともにアギス朝の出身者とした。紀元前226年にはマンティネアの要請で守備隊を追い払い、ディメでアカイア軍の主力を破り、コリントスなど要地も征服した。しかしアラトスとの交渉は決裂し、アラトスはマケドニア王アンティゴノス3世を戦いに引き入れた。アルゴスの反乱でクレオメネスはコリントス地峡を放棄せざるを得ず、メガロポリスを破壊して反撃したが、戦局は変わらなかった。紀元前222年のセッラシアの戦いでマケドニア軍に敗れ、スパルタ軍はほぼ全滅した。

クレオメネスは市民に降伏を命じ、自らはアレクサンドリアに逃れて同盟者のプトレマイオス朝を頼った。しかしプトレマイオス3世が死去し、跡を継いだプトレマイオス4世は彼を無視し、やがて軟禁状態に置いた。紀元前219年、友人たちと脱出と反乱を試みたが、市民がなびかないと悟ると、再び捕らえられる前に自殺した。ウィリアム・スミスは彼を「最後の真に偉大なスパルタ人」と評した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物