伝記
ヘンリー8世は、テューダー朝第2代のイングランド王(在位1509年〜1547年)である。6度の結婚と、カトリック教会からのイングランド国教会の分離で知られ、ローマ教皇庁と対立し、修道院を解散して、自ら国教会の首長となった。1491年6月28日、ロンドン郊外のグリニッジで、ヘンリー7世と王妃エリザベスの次男として生まれた。兄にアーサー、姉にマーガレット、妹にメアリーがいる。王位に上がる予定ではなかったため、幼少期の詳細は知られていない。ヘンリーは一流の教育を受け、ラテン語とフランス語に堪能で、イタリア語も多少は話したという。
1501年にキャサリン・オブ・アラゴンと結婚していた兄アーサーが、婚儀の20週後に急死し、ヘンリーが王太子となった。兄の妻との結婚は教会法上禁じられていたが、スペインとの関係を保つため、教皇の許可を得てヘンリーはキャサリンと婚約した。ヘンリーは14歳で結婚できる年齢になったが、結婚に抵抗した。1509年に父の崩御によって即位し、2か月後にキャサリンとの結婚式を挙げた。当初は政治にあまり関心を示さず、1511年ごろからは、ヘンリーの全幅の信頼を受けたトマス・ウルジーが、教会内では枢機卿、政治では大法官として権勢をふるった。1521年にはバッキンガム公を反逆罪で処刑し、同年、ルターの宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者でもあった。
外交では、1513年に自ら軍を率いてフランスへ攻め入ったが、フランスと同盟していたスコットランド王ジェームズ4世がイングランドに攻め込み、王妃キャサリンの指導するイングランド軍に敗れて戦死した。1520年にはフランソワ1世とカレー近郊で会見し、豪華な饗宴や騎馬試合が催された(金襴の陣)。しかし平和は長続きせず、翌年からのイタリア戦争ではカール5世を助けて参戦したものの、得るものは少なく、1525年にフランスと講和した。
男子の世継ぎを渇望したヘンリーは、キャサリンとの間にメアリー王女しか残らなかったため、侍女アン・ブーリンを求めるようになった。アンは愛人となることを拒み、正式な結婚を求めた。ヘンリーは、キャサリンとの離婚(正確には婚姻の無効)を画策するようになり、教皇クレメンス7世と対立した。交渉に失敗したウルジーは1529年に罷免され、ヘンリーは宗教改革議会を召集して、トマス・クロムウェルの補佐を受け、1534年には国王至上法を発布して、自らをイングランド国教会の長とした。1535年には、ウルジーの後に大法官となっていたトマス・モアが、改革に反対して処刑された。1533年にはアンと結婚して、エリザベス王女をもうけたが、男子は生まれず、1536年にアンは姦通罪などで処刑された。1538年には、教皇パウルス3世により破門されている。翌日、ヘンリーはジェーン・シーモアと婚約し、1537年にエドワード王子を産んだジェーンは、産褥死した。クロムウェルの推薦を受け、次の王妃を求めて、アン・オブ・クレーヴズが候補に上がった。
次第に肥満して健康を害し、1547年1月28日に崩御した。後継者は息子のエドワード6世であった。
同じ年に亡くなった人物
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- フィリッパ・ファン・エフモント (1547年没)
- マリー・ド・リュクサンブール=サン=ポル (1547年没)
- ドロテア・ア・ダンマーク (1504-1547) (1547年没)
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同じ地域に関係する人物
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- ダイアン・フォーチュン (1946年没)
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