伝記
マルクス・オペッリウス・セウェルス・マクリヌスは、164年頃(164〜166年の間とも)に属州マウレタニアの植民市ロル・カエサリア(現アルジェリアのシェルシェル)で生まれたローマ皇帝である。騎士階級の一族の出で、上流階級の教育を受けたと伝えられる。一方、彼はベルベル系のマウリ人の出で、耳に穴を開けていたというカッシウス・ディオの記述がその裏づけとされ、家柄は無名だったともいわれる。信頼性の低い『ヒストリア・アウグスタ』は、奴隷に生まれた解放奴隷だったと主張するが、これには疑いが残る。成人後は法律家として名を上げ、セプティミウス・セウェルス帝のもとで行政官僚に登用された。親衛隊長官プラウティアヌスの縁で騎士身分の官職を歩み、皇帝私有財産の管理などを経て、カラカラ帝の時代、おそらく212年から親衛隊長官となった。軍事を担う同僚に対し、法律の専門家である彼は民政を受け持った。
親衛隊長官は帝位を狙うと噂されるのが常で、マクリヌスもそう噂された。気まぐれに人を弾圧するカラカラがその矛先を自分に向けるのを恐れ、噂が皇帝の耳に入らぬよう苦心したという。カッシウス・ディオは、カラカラが次第に彼へ不審を抱き、粛清を検討していたと記す。216年にカラカラがパルティア遠征に踏み切ると、彼も従軍した。217年春、カラカラがエデッサの南のカルラエ近くの神殿へ向かう途中の4月8日、皇帝は近衛兵ユリウス・マルティアリスに刺殺された。マルティアリスは個人的な恨みを抱いており、放尿中の皇帝を後ろから刺し、逃げようとして他の兵に殺されたという。マクリヌスが事件をけしかけたと噂する者もいた。ディオによれば、アフリカの占い師がマクリヌスと息子ディアドゥメニアヌスが帝位に就くと予言し、その知らせで処刑を恐れたことが動機の一つとされる。
4月11日、彼は帝位請求者に名乗りを上げ、息子に「アントニヌス」の名を名乗らせて、アントニヌス朝の復古を掲げた。元老院議員の経験がない者が皇帝となるのは初めてだったが、元老院はこれを承認した。ユリア・ドムナには謀反の疑いをかけてアンティオキアに幽閉し、彼女は不治の病(癌と推測される)を抱えたまま絶食して死を選んだとされる。バッシアヌス家の一族は故地シリアのエメサに戻らせた。外交では、ダキアの騒乱を捕虜となっていた反乱者への恩赦で鎮め、アルメニアにはティリダテス2世を傀儡君主に据えて対処した。パルティアとの戦況は不利で、撤兵と引き換えに2億セステルティウスの賠償金を払って講和した。内政では、カラカラの通貨乱発によるインフレに対し、デナリウス銀貨の銀含有量を51.5%から58%に戻して信用の回復を図った。
しかし軍は屈辱的な講和に不満を抱き、軍事費の削減に乗り出すと反発は深まった。この機に、ドムナの姉ユリア・マエサが、孫の神官ヘリオガバルスをカラカラの落胤と称して反乱を起こし、軍の大規模な反乱へと発展した。アンティオキアの戦いでマクリヌスは自軍の反乱により敗れ、伝令兵に変装してイタリアへ逃れようとしたが、道中のカッパドキアで殺された。息子ディアドゥメニアヌスも捕らえられて殺され、その血筋は絶えた。彼の死は、のちの軍人皇帝時代の到来を予見させる出来事だったとされる。映画『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』(2024年)では、デンゼル・ワシントンが演じた。
同じ年に亡くなった人物
- 楽進 (218年没)
- マルクス・オペッリウス・アントニヌス・ディアドゥメニアヌス (218年没)
同じ地域に関係する人物
- アリアラテス5世 (紀元前200)
- アンティオコス2世テオス (紀元前246年没)
- John Palaiologos (1275年没)
- Ariobarzanes II of Cappadocia (紀元前100)
- ユヌス・エムレ (1320年没)