HISTORICAL PERSON · 1985年没

ジャン・デュビュッフェ

フランスの画家。アンフォルメルの先駆者とされ、伝統的な西洋美術の価値観を否定してアール・ブリュット(生の芸術)を提唱した。

生涯
1985年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 6区)
出生地
フランス共和国(ル・アーヴル)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン・デュビュッフェは、1901年7月31日にフランスのル・アーヴルで生まれ、1985年5月12日にパリの自宅で没した画家である。アンフォルメルの先駆者と見なされ、西洋美術の伝統的な価値観を否定して、アール・ブリュット(生の芸術)を提唱した。画家として立つ決意をしたのは遅く、40歳を過ぎた1942年のことだった。

父母の家業はワインの卸売りだった。1908年にリセに入学し、晩年の『駆け足の自伝』によれば、7、8歳のころに母と旅行した田園で、女性が風景を描いているのを見て、帰ってから真似て描いたという。父は無神論者であり、本人も旧友の影響で一度は聖体拝領を受けたが、まもなく自分の判断で信仰をやめた。16歳でボードレールの『悪の華』に感動し、ル・アーヴル美術学校の夜間課程に通った。1918年7月にバカロレアの第二次試験に合格したが、父から法律を学ぶか会計を習うかの選択を突きつけられ、法律を学ぶという名目でパリへ出た。学生街に部屋を借り、画塾のアカデミー・ジュリアンに通ったが、伝統的な指導に嫌気がさした。古い芸術観を拒む時代の空気は感じていたものの、どんな立場をとればよいのか掴めなかった。1921年にアンドレ・マッソンと出会い、そのアトリエは、俳優アントナン・アルトーや、民族学者のミシェル・レリスなど、才能ある若者のたまり場だった。

1927年にポーレット・ブレと結婚し、1929年に娘が生まれると、血族とは何のつながりも持たずに、自らワイン会社を設立した。事業が軌道に乗ると、絵を描きたい衝動が再び頭をもたげ、1933年にアトリエ用の部屋を借りて、余暇に描き続けた。1942年には、ただ絵を描きたいという望みのままに、信頼する人物に会社の経営権を譲った。画廊経営者のルネ・ドルーアンに説得され、1944年10月20日から約1か月、画廊で「ジャン・デュビュッフェの絵画とデッサン」展が開かれ、作品は数日で売却予約が完売した。購入者には小説家のアンドレ・マルローもいた。しかし、異様な個性、不器用で無個性などと、芸術を侮辱する反響も大きく、そのために注目を集め、会期は延長された。1946年には、同じ画廊で「ミロボリュス・マカダム商会、厚塗り」という奇妙な題名の個展を開いた。砂やアスファルト、ガラス片を混ぜた、道路の表面のような厚塗りの画面に、子どもの落書きのような筆致で描いた作品群は、見る人を困惑させた。この展覧会は、フォートリエやヴォルスの個展とともに、第二次世界大戦後の西洋美術の新たな出発を告げるものとされる。1959年にイギリスからの招待を受けたが、芸術に勲章を与えるという考えに反対して、「芸術の本当の使命は壊乱なのです」と断った。1960年12月から約3か月、フランスで最初で最大の回顧展が開かれ、402点の作品が集められた。

1923年にプリンツホルンの著書『精神病者の芸術性』を入手し、フランスとスイスの精神病院を訪ねて作品を探した。1945年に、強迫的な幻視者や精神障害者の作品をアール・ブリュットと呼び、精神の深淵の衝動が生のまま表れていると考えた。同年8月の手紙で、この言葉を初めて記している。収集の目的はなかったが、多くの作品が寄贈されて、コレクションとなった。1947年11月15日にはドルーアンの画廊の地下に「生の芸術センター」を開き、1948年にはアール・ブリュット協会を設立したが、1951年に資金不足で解散した。コレクションは1967年にパリで初めて展示され、1976年にスイスのローザンヌ市にアール・ブリュット・コレクションが開設された。

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