HISTORICAL PERSON · 1985年没

フェルナン・ブローデル

経済状態や地理的条件が世界史で果たす役割に注目し、20世紀の歴史学に大変革を起こしたフランスの歴史家。アナール学派の代表人物。

生涯
1985年没
死亡地
フランス共和国(オート=サヴォワ県 / クリューズ)
出生地
フランス共和国(リュメヴィル=アン=オルノワ)
出典
世界地図
フランス共和国(オート=サヴォワ県)

伝記

フェルナン・ブローデルは、1902年8月24日に、北仏ムーズ県の小さな農村リュメヴィル=アン=オルノワで生まれたフランスの歴史家である。経済状態や地理的条件が世界史で果たす役割に注目し、20世紀の歴史学に大変革を起こした、アナール学派の代表人物である。父シャルル・イレールは小学校の教師であった。生まれた村はドイツ国境に近いロレーヌ地方にあり、虚弱児と診断されたブローデルは祖母に預けられ、輪作や水車小屋、鍛冶屋の仕事などを体験し、普仏戦争やクリミア戦争の体験者の話を聞いて育った。1909年に父の転勤でパリ郊外の小学校に入学し、リセでは漠然と医者になることを考えていたが、ソルボンヌ大学の歴史学科に進み、地理に関心をもった。

卒業後、1923年から1926年までアルジェリアのコンスタンティーヌで、1926年から1932年までアルジェで、リセの教壇に立ち、地中海世界に強い関心を抱く契機となった。その後、1932年から1935年にはパリのリセの教師を務めた。1933年には、アルジェ時代の教え子ポール・ブラデルと再婚した。1935年から1937年にはブラジルのサンパウロ大学に赴任し、1937年からパリ高等研究実習院に勤めた。1937年にフェーヴルと出会い、終生、彼を「精神的な父」とした。『社会経済史年報』の創刊に携わったマルク・ブロックとの親交も、このころに始まった。

1939年、フェーヴルの別荘で、のちに『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(『地中海』)となる博士論文を書き始めたが、その年に第二次世界大戦が起き、砲兵隊中尉としてマジノ線に動員された。1940年6月29日にドイツ軍の捕虜となり、1945年まで収容所で過ごした。マインツの将校収容所では、資料のない状態でも記憶だけをたどって博士論文を書き続けた。1941年に初稿を受け取ったフェーヴルは、「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く、生き生きとしている」と応えた。収容所内の仲間に講義や研究指導をしたため、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど、特別待遇を受け、マインツ大学図書館から文献を借りて、多くのドイツ語史料にあたった。1942年にリューベックの懲罰目的の収容所に移されたが、自他ともに認める「象の記憶力」によって原稿を書き進めた。1945年5月に解放され、1947年3月に、5年に及ぶ収容所生活で書き上げた論文の公開口述審査を受けた。

1949年に47歳で『地中海』が刊行された。自費出版で、初版は1冊本で1,600ページに達し、図版や写真は一切なかった。「全体史」を目指したこの大作は、その後の歴史学に多大な影響を及ぼし、「新しい歴史学」のさきがけとなった。同じ1949年からコレージュ・ド・フランスの教授を務め、1956年にフェーヴルが亡くなったあとは、雑誌『アナール』の編集長および高等研究院第6部門の責任者となって、多くの人材を育てた。1958年に論文「長期持続」を発表し、「歴史家にとって、いっさいは時間に始まり、時間に終わる」と唱えて、新しい歴史学のリーダーとなった。歴史を、短い出来事の「短波」、社会の歴史の「中波」、自然や環境、構造の「長波」の三層で捉え、とくに最後の「長期持続」を重視した。1972年に70歳で退職したのち、1979年に『物質文明・経済・資本主義』を著し、1984年にはアカデミー・フランセーズ会員となった。1985年11月27日、最後の大作『フランスの歴史』の執筆の半ばで、サヴォワ県の別荘で死去した。83歳であった。

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