伝記
サルゴン2世は、古代メソポタミアの新アッシリア帝国の王で、紀元前722年から紀元前705年まで在位した。前王シャルマネセル5世の直系ではなく、王位を簒奪した可能性が高いとされる。名のアッカド語形は、おそらく「真の王」または「正統なる王」を意味する。自身は、ティグラト・ピレセル3世の息子だと主張したが、その確かさは疑われている。王になる前の経歴は何も分かっていない。おそらく紀元前762年ごろに生まれ、アッシリアの内乱の時代に育ったとされる。シャルマネセル5世の死から即位に至る経緯は完全には明らかでなく、宮廷クーデターによって前王を廃位・暗殺したという推測が最も有力とされるが、簒奪かどうかには論争もある。
即位したとき、サルゴンはすでに中年で、おそらく40代であった。カルフにあるアッシュル・ナツィルパル2世の宮殿に住んだ。前王が3年にわたって包囲を続けていたサマリアについては、即位後すぐに課税と労役を廃止したうえで、遠征を手早く終わらせようとした。サマリアは速やかに陥落し、イスラエル王国は滅びた。彼自身の碑文によれば、2万7,290人がイスラエルから追放され、アッシリア帝国内の各地に再定住させられた。旧約聖書に登場する北イスラエル王国を滅ぼした王として、その名は広く知られている。
サルゴンは積極的に遠征を重ねた。最大級のものが、北の隣国ウラルトゥに対する紀元前714年の遠征と、紀元前710年から709年にかけてのバビロン再征服である。バビロンはシャルマネセル5世の死に際して独立を回復していた。ウラルトゥに対しては、国境沿いの長い道筋を進むことで要塞線を避け、最も神聖な都市を占領して略奪した。バビロニアでは、ティグリス川に沿って進んだ後、北からではなく南東から攻め込むという、予想外の攻撃を仕掛けた。こうした数多くの軍事的成果により、偉大な征服者、戦術家として認められている。名は、約2千年前にアッカド帝国を築いた伝説的な君主サルゴンにちなむとみられ、彼は世界征服をめざす遠征によって、その足跡をたどろうとしたと考えられている。自らを敬虔さ、正義、活動力、統治力、強さの持ち主として示そうともした。
紀元前713年から治世の終わりまで、サルゴンは新たな首都として、ドゥル・シャルキン(「サルゴンの要塞」の意)の建設を進めた。バビロニアを征服した後は、王太子センナケリブをアッシリア本国の摂政とし、自らはバビロンに3年間滞在し、紀元前706年にほぼ完成した新都へ移った。しかし紀元前705年、アナトリアでの戦いでサルゴンは戦死し、遺体は敵に奪われた。アッシリアの人々はこれを災厄の前兆と見なしたという。後を継いだセンナケリブは、即位するとただちにドゥル・シャルキンを放棄し、首都をニネヴェへ移した。センナケリブが碑文で父に触れず沈黙した理由として、父の不運を恐れた迷信深さなどが挙げられているが、確かなことは分からない。
名前は誕生時のものではなく、王座に就く際に採った即位名だったと考えられる。碑文では、この名を公正と正義に忠実な王という意味に結びつけており、新都の土地の所有者への支払いを記した碑文にも、その姿勢がうかがえる。サルゴンは、その後アッシリアの滅亡に至るまで約1世紀にわたって帝国を統治するサルゴン王朝の創始者と見られ、新アッシリア時代の最も重要な王の一人とされる。孫のエサルハドンの治世には、「かつての王族の子孫」が王位を奪おうとする動きもあり、この王朝が以前の王統と必ずしも結びついていなかったことを示唆する。
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