伝記
アブー・タンマームは、アッバース朝期に活躍したアラブの詩人であり、詞華集の編者でもある。アラブ文学史上最大の詩人の一人とされる。詳しい名はアブー・タンマーム・ハビーブ・イブン・アウスといい、シリアのダマスクスの出身とされる。生年には諸説があり、788年頃とも807年頃ともいわれ、息子タンマームの言によれば804年、詩人自身が語ったところでは806年で、ダマスクスとティベリアの間にある町の生まれだという。没年は845年頃で、息子によれば845年、他の説では846年とされる。
父はキリスト教徒でタードゥスといい、ダマスクスでぶどう酒を売っていた。両親はアラブ人のキリスト教徒だったが、タンマームはのちにムスリムに改宗した。のちに父の名をアウスと改め、アラブのターイ族につながる系譜を自ら作り上げたとされる。この作り話はあざけられたらしいが、しだいに広く受け入れられたようで、多くの書物が彼を「ターイ族の人」と呼んでいる。若い頃はダマスクスで織工の見習いをし、のちにエジプトへ渡って、大モスクの前で水を売って暮らしながら、アラブの詩とその規則を学んだという。
最初の詩はエジプトで、徴税請負人アイヤーシュ・イブン・ラヒーアをたたえて作ったとされる。しかし期待した報酬を得られず、腹いせにその人物を風刺する詩を作ったという。その後シリアに戻り、ホムスのほか、アゼルバイジャン、アルメニア、イランなどを転々と放浪した。833年、カリフのマァムーンがビザンツ遠征から戻るとき、ベドウィン風の装いで進み出て頌詩をささげたが、カリフの好みには合わなかった。ベドウィンが都会風の詩を作るのは筋が通らないと考えられたのである。
名声を得たのは、第8代カリフ、ムウタスィムの治世である。838年、アモリオン(アンムーリーヤ)から凱旋するカリフを出迎えるために遣わされ、謁見を許された。ただし本人が詩を朗誦しないことが条件とされた。アブー・タンマームの声がしわがれていて、カリフが不快に感じたためである。そこで美声の朗誦者に託して、アモリオン征服をたたえる有名な頌詩を詠ませた。その最初の半句「剣は書物よりも真実を告げる」は、遠征を思いとどまらせようとした占星術師たちの予言をほのめかしており、カリフは予言や書物を顧みず、自らの剣を頼んだのだという。こうして彼は当代随一の頌詩詩人となり、カリフのほか多くの高官や将軍、諸侯をも称賛した。地方総督のもとにも赴き、ニーシャープールではアブドゥッラー・イブン・ターヒルを訪ねた。だが与えられた報酬に失望し、厳しい気候にも耐えかねて引き返した。途中、ハマダーンで雪に閉じ込められ、その滞在を利用して最も有名な詞華集『ハマーサ』をまとめたという。これは無名に近い詩人たちの詩の断片を集めた書で、主著として知られる。没する2年前には、詩人の崇拝者だった行政官ハサン・イブン・ワフブの計らいで、モスルの駅逓長官の職を得た。
その詩は修辞の飾りや言葉遊びに富み、凝った語彙を用いるもので、口承の伝統から離れて知的で書き言葉に向かう詩だった。詩人ディウビルは、その詩の三分の一は盗作、三分の一は悪く、三分の一は良いと評した。弟子のブフトゥリーは、師の良い詩は自分の良い詩に勝り、悪い詩は自分の悪い詩よりひどいと語った。後世、二人はよく比較され、アブー・タンマームは技巧的な作風、ブフトゥリーは自然な作風の代表とされる。スーリーの『アブー・タンマーム伝』は最も古く詳しい伝記であり、その詩集はスーリーとイスファハーニーによって編まれた。
同じ年に亡くなった人物
- アインハルト (840年没)
- 淳和天皇 (840年没)
- ルートヴィヒ1世 (フランク王) (840年没)
- 文宗 (唐) (840年没)
- リヨンのアゴバール (840年)
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