伝記
フランシスコ・ザビエルは、1506年4月7日に、ナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれたカトリック教会の司祭・宣教師である。バスク人の地方貴族の家に育ち、五人姉弟の末っ子で、父フアン・デ・ハッソはナバラ王フアン3世の信頼が厚い宰相、母はマリア・デ・アズピリクエタであった。ナバラ王国は小国ながら独立を保ってきたが、1515年にカスティーリャ王国に併合され、父はこの激動のなかで没した。一族はバスク人とスペイン、フランスの間の複雑な争いに翻弄された。
1525年、19歳でパリ大学に留学し、自由学芸と哲学を学ぶうち、フランス出身の若いピエール・ファーヴルと同室になった。のちにバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い、故郷で療養したのち、パリ大学のモンテーギュ学院で学んでいた。1529年に母が亡くなり、4年後にはガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなった。ザビエルはロヨラから強い影響を受けて聖職者を志し、1534年8月15日、ロヨラ、ファーヴルら7人がモンマルトルの聖堂で、神に生涯を捧げる誓いを立てた。これがイエズス会の創立である。1537年6月、ヴェネツィアで司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼を誓っていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員をインド西海岸のゴアへ派遣することになり、出発直前にボバディリャが熱病にかかったため、ロヨラの秘書だったザビエルに白羽の矢が立った。彼は即座に承諾し、1540年3月15日にローマを発ち、1541年4月7日、35歳の誕生日にリスボンを出発した。1542年5月6日にゴアに着き、そこを拠点にインド各地で宣教して、1545年9月にマラッカ、1546年1月にモルッカ諸島に行った。1547年12月にマラッカで出会った鹿児島出身の武士ヤジロウが、日本に来るよう勧めた。
1549年4月15日、コスメ・デ・トーレス神父ら、ヤジロウを含む3人の日本人とともにゴアを出発し、8月15日に鹿児島に着いた。聖母被昇天の祝日にあたり、日本を聖母マリアに捧げたという。9月に薩摩の島津貴久に謁見して宣教の許可を得たが、貴久が禁教に傾いたため薩摩を去り、1550年に平戸を経て山口に入った。京では後奈良天皇や将軍足利義輝への拝謁を請願したが、献上品がなく棄却された。山口に戻り、1551年4月に大内義隆にあらためて謁見し、望遠鏡や置時計、眼鏡、小銃などを献じた。義隆は宣教を許して廃寺の大道寺を与え、これが日本最初の常設の教会堂となり、約2か月で約500人が信徒となった。この時期の布教では、通訳ヤジロウの知識が乏しく、神を「大日」と訳したため仏教の一派と誤解されたが、ザビエルは誤りに気づき、「デウス」の語をそのまま用いるようにした。豊後では大友義鎮に迎えられて保護を受けた。
1551年11月に日本を発ち、1552年2月にゴアへ着いた。日本での布教には中国での宣教が不可欠と考えて中国を目指したが、入境はかなわず、病を発して、1552年12月3日、上川島で46歳で世を去った。遺体は現在、ゴアのボム・ジェズ教会に安置されている。1622年3月12日、ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。
同じ年に亡くなった人物
- Kul Sharif (1552年)
- オラフ・ペーテルソン (1552年没)
- ハインリヒ5世 (メクレンブルク公) (1552年没)
- エドワード・シーモア (初代サマセット公) (1552年没)
- パオロ・ジョヴィオ (1552年没)